先ごろ、某水色系SNSにおいて音楽ファンを中心に「私を構成する9枚」というハッシュタグとともに9枚のアルバムジャケットの画像を投稿することがにわかに流行した。アルバムジャケットが複数枚並べられているとそれだけでもう嬉しくなってしまう単純な人間(ディスクガイド大好き!)なので、人の投稿を眺めて楽しんでいた。
特に、自分がリスペクトの念を抱く、音楽活動に携わっていてる人物によるチョイスを見ると、なんだかしみじみとしてしまう。定食屋のおっちゃんが店じまいした後の薄暗い店内で一人で食事しているのを垣間見てしまったときの、あのなんともいえない気持ちが湧いてくる。そんな風に思われるのが癪だと感じる方がいたのならすみません!でも、どうしても「音楽は個人に属するもの」という風にしか思えない自分からしてみると、その人がこれまでに一人で音楽に接してきた時間がフレームに収まって目の前に現れてきたような気がして、くらくらしつつもやはり目を閉じてしみじみと首を縦に振りたくなってまう。
しばらくして「なかったことにしてるけどかなり聴き込んだ9枚」(うろ覚え)というハッシュタグも登場した。このハッシュタグが「本当に音楽が好きな人はむしろこっちを発表するんだろうな」(うろ覚え)というコメントとともに紹介されていて、「本当に音楽が好きな人」という文言に、「?」と思いつつ、タグ付けされた投稿を見てみると、メタルやメロコア、ミクスチャー系、20年ぐらい前のJ-POP、アイドルなどの「いかにも」なジャンルのアルバムが選ばれていた。
これは印象でしかないが、「なかったことにしてるけど〜」の方は「正直さ」が指標になっており、「正直さ」を支えているものは「恥ずかしさ」であるように見え、さらにその「恥ずかしさ」はある程度誰もが共感できるものとして設定されているようだった。また、「ダサさ」と「無為自然」が等号で結ばれることを自明とするようなところもあった。
共感がベースになっている以上当然社会的にならざるを得ない。それに茶々を入れても仕方がないと思うものの、「正直さ」というものは結局他人からの評価でしかないという身も蓋もない事実をまざまざと見せつけられた気がして、ちょっと気が遠くなってしまった。
やはり気になってしまうのは「本当に音楽が好きな人」という言い方。そもそもの話、ものを選ぶということが作為でしかないのだから、その時点でフィクションという要素が含まれるのは当然であって、殊更「本当」だったり「正直さ」、「誠実さ」を気にしなくていけいないのはなぜ?と疑問に感じてしまう。「全ては幻想である!」とまでは言わないにしても(幻想だと思いたけど。ものぐさなので)。むしろ、フィクションだからこそ「真実っぽさ」を押し出していかなくてはいけないのかもしれないが。
こういうのは十代のときの「他人からどう思われるか」という思考がいかに深い爪痕を残すのかという話でもある気がする。最近は他人から「まーた馬鹿が気取ってやんの」と思われてもその通りだし別になんでも良いやと感じるようになってきた。実際に言われたら傷つくし、腹も立つけど…
10年ぐらい前に某サブカル誌を読んでいたら、ある若手ロック・ミュージシャン二人の対談が載っており、片方の「別にマニアの自意識を満たすためにやってるわけじゃない」という発言が見出しになっていて、「イヤなこと言うよなあ」と思った。イヤさがクリティカルすぎて前後の文脈は忘れてしまった。ここで大切なのは見出しを憎んで人を憎まずという気持ち。
この「別にマニアの自意識を満たすためにやってるわけじゃない」という一言はやがてヘルペスのような存在と化し、普段は忘れていても免疫が落ちたりすると再発して思い出してしまうようになった。その度に「ああ、イヤだ、イヤだ」と感じてしまう。特にこの5年間は症状がひどい。言葉の一人歩きが過ぎてこの5年間に感じたイヤさの象徴みたくなってきた。むしろこのイヤさこそが活動の指針を決めているようなところすらある。もはや金言。
「マニアの自意識」という言葉の実体の伴わなさが過剰な意味付けを引き寄せているような気がする。
「マニア」という単語は上から目線の偉そうな奴ぐらいの意味でしかなく(「スノッブ」でも「権威主義」でも代入可能。または「オタク」でも可。「外人」でも「金持ち」でもなんでもOK。ここでは評論家のことを言っているのだろう)、手頃な仮想敵のステレオタイプとして挙げられているだけのような気がするので(子供にとっての人参、ピーマン、グリーンピースのような存在)、その安易さに辟易しながらも拘泥せずにここでは捨て置くとして、問題は自意識のほう。
自意識というものは他人の目にしか映らないということになっており、おまえが何を言っても無駄とでも言いたげな様子で立ちはだかる感じがして恐ろしい。被害妄想の気が強いので、自意識という言葉を聞いただけで冤罪で捕まった気がしてくる。さらに恐ろしいのは、「冤罪とか言っちゃってこのイノセント気取りが。おまえに罪の意識はないのか」という形で思考が続いていくところ。泥沼化は必至。このドミノ倒しはどこかで原罪みたいなものを設定して手打ちにしないことには延々続いていくだろう。そして、原罪を一度背負ってしまったら「だったらおまえも悔い改めろよ」という形で視線を他人にシフトして行かざるを得ず、これもまたある種の地獄である。(macが目の敵にされる主な原因は社名とロゴのせい)
単におまえの被害妄想がひどいだけだろとおっしゃる方もいるかもしれませんが。いや、でも、自意識という言葉が人の口から出てくるときに相手の他の可能性を探るということはまずないから、問答無用な感じがして本当に嫌な言葉だよな、と思う。まさにノー・マーシー。逆に言えば説得力がある言葉ということかもしれないが。少なくともいちいち付き合うのが馬鹿馬鹿しい言葉の一つであるとは言える。
だいたい、やってるほうが「ダサ坊お断り!」と思っていようが「一人でも多くの方に聴いてもらいたいです!」と思っていようが、開かれていようが、閉じていようが、こっちは好きで聴いてんだからそんなことは知ったこっちゃねぇよ!タウン&カントリーじゃあるまいし!としか思わない。
あと関係ないけど、「ポップスの良心」「アメリカン・ロックの良心」といった表現の押し付けがましさも、「んー」という感じ。よっぽど悪を懲らしめたいのだろうな!しかも他人のふんどしで!という感じ。でも意外と商品ポップなどで軽い感じで使われがち。「ポップスの悪意」「アメリカン・ロックの悪心」とかのほうが断然聴いてみたい!と思うけど。
なんかそういうポリティカルなのかどうかわからないけれども「正直さ」「誠実さ」といったコレクトネスの下に、あり方を一本化していくのはどうなのと思う。支流、傍流を無くして全部本流にもっていくというような。水脈が至るところにあってたまに繋がったりするというのが豊かさというものなのでは。結局ナイアガラの受け売り男(エー、エー、毒消しゃいらんかね♪)になってしまうけど、「音楽は個人に属するもの」で、趣味のものであるとしか考えられないので、配慮の正しさ、合意の得られやすさ、流通のしやすさみたいなところで質を測ろうとすることには違和感を覚える。電車の中で化粧するなとか、ご飯を残すやつが許せないといった話と同じディメンションで語られがちだが、音楽がただの日本語でない限りにおいて、音楽には音楽なりの自律性ないし自発性だってあるはず、きっと。
やっぱり音楽はどこか舐められているようなところがあって、文芸やお笑い、ファッションなど他ジャンルのさらにサブジャンルみたいな扱いをよく受けがちである。ミュージシャンの成功とは、小説家として名声を得ることだとか、マルチタレントないしサブカル文化人として様々なメディアで飄々と活躍することである、というふうに考える人は少なくないだろう。「あがり」をそういうところに設定するのはその人の勝手だから別に知ったこっちゃない。のらりくらりやっていたらいつかピエール瀧みたいになれると思っているような人に対しては一生やってなさいよ、と思うだけだ。だって継続は力なりと言うじゃない。
音楽活動に従事する者に、音楽に比べてお笑いがいかに偉いのかということを語られるということが、これまでに何度かあって、その度にガックリとさせられてきた。彼らには芸人さんに対する尊敬とか羨望のまなざしがあって、俺のやってることなんかに比べたら、お笑いのほうが世のため人のためになっている、というようなことが言いたかったのだろうけれど、だからといって音楽を貶めないでも良いじゃないか、と思う。もっと言えば、それはおまえ自身の不甲斐なさにすぎないのではないかと尋ねてみたい欲にかられもするが、実際に口にするのはさすがに憚られる。
従事している人にしたって思い入れがその程度なのだから、況や一般の人をや。まあ、そんなことを言っているのも一部の人ですけどね。とにかく、グッと来る友情エピソードだとか「ロックの名言」だとかそういう話に終始して「音楽そのもの」が語られないっていう状況はとても残念だ。そんなものはただの「日本語」でしかないと思うのだが。「日本語以外のものがあった!」という驚きがあったからこそ、音楽にここまでのめり込んでしまったようなところがある。「ロックの名言」なんぞと同じ地平で扱われることを苦々しく思ってしまう。
なにはともあれ、「共感できないもの・よくわからないもの」というか「自分のボキャブラリーの範囲内では扱いきれないもの」に対する態度は益々厳しく、というか軽く、ぞんざいになっていくことだろう。インターネットの流通を支える輸送手段がルサンチマンである限り。だがしかし所詮こんなのはご近所トラブルの類でしかなく、巷で「コップの中の嵐」と言われるもので、スケール的にこんがらがったイヤホンのケーブルを解く程度の話に過ぎないのですが。
などと言ってみてもなんとなく口の中がほろ苦い。なぜこのようにエレガントさに欠ける繰り言をブログに書かなくてはいけないのだろうか。シティ感ゼロ。ほんとうにザ・インターネットという感じ。こんなことをいちいち書く必要のない人物の身のこなしをやはり想像しなくてはいけない。
ところでレンタルビデオ屋行くと「ザ・インターネット」というタイトルの映画があって見るたびにどきっとする。「ザ・エージェント」もあるし、きっとそういう事なんだろう(奥田民生調)。
https://www.youtube.com/watch?v=E-rstOjonZU
徒然ビューティー備忘録
忘年会、正月の帰省、新年会などを経て、暴飲暴食スイッチが入り、その流れで、1月中はついつい高カロリーのものが食べたくなってしまい、また週末になればお酒が飲みたくなり、欲望に素直な気持ちで従った結果お腹が出てくるというのがここ何年かのパターン。今年も例年通り、いよいよ腰回りがきつくなってきた。昨年は下半期になって何故かジョギングに目覚め、ついでに食事制限も始めたので、かなり脂肪は落とせたのだけれど、結局元に戻ってしまいそう。
今までお店で一人飲みということをあまりしたことがなかった。なぜなら店員さんを一度の発声で呼べる自信がないから。「すいませーん。すいませーん。すいませーん。すいませーん。」という連呼が、店員さんには気付かれず、周りのお客さんにだけ聞こえているという状態はなかなかに惨めだ。駅前にある日高屋系列の立ち飲み屋は一人の客が多く、店も広くないので店員さんが捕まる確率が高く、最近よく入ってしまう。料理の質をつべこべ言うのは野暮というもの。
それと、関係ないけど、回転寿司でレーンに回っていないものを注文するのも苦手。まず忙しそうな職人さんに対して気持ちで負けてしまう。周りの人は「えんがわ。あと、うに」みたいな感じでスムーズに注文しているけれど、自分の場合は「私の声が聞こえていますか?」という意味合いで、最初に「すいません!」と尋ねてからでないと注文できない。もはや回転寿司で注文することが普通のことであるのならば、わざわざ寿司を回転させることに必然性はあるのかという疑問もあるが、どうなんだろう。
日曜日、ブルーノート東京へジェームス・チャンス&コントーションズのライブを観に行った。ブルーノート東京へ行くのは初めて。すこしドキドキした。
まずジェームス・チャンスのヒップネスを讃えなくてはならない。やはりヒップネスというものは生半可なものでないと確信する。
ライブはジェームス・チャンスのソロピアノで幕開け。その後、バンドの演奏を従え、スタンダードナンバー「酒とバラの日々」で歌声披露。洒落なのか本気なのかわからない、なんていう一言が口を衝いて出ようものなら自らの頬に張り手を喰らわし目を覚まさなくていけない。ジェームス・チャンス本人は洒落とか本気といった尺度で物事に取り組んではおらず、当然のごとくそれを行っているという様子であった。そこには我々に対する一切の目配せもウィンクもない。おもねりとおひねりの微笑み合いが通用しないステージに思わず放心。
JBのカバーである”Super Bad”はストレートに取り組まれたものだったが、やはり出来上がりは異質で、我々が普段グルーヴと呼んでいるものと一緒くたにしようというのはどだい無理な話。官能と劣情の速さの違いか。「めっちゃ踊ったあ」などのノホホンとした感想で済まされるものではなかった。でもジェームス・チャンスのダンスはとても可愛らしいダンスだった。
すっかりヒップネスにあてられて、私事で恐縮ですが、自分の行い全般がとても恥ずかしくなってしまいました。この期に及んでコントーションズの影響が云々というような話はもはや茶番でしかないと思う。
ただの固有名詞へと押し遣ってなんとか安心せんとする我々の企てを潰すためにジェームス・チャンスは遠路はるばる日本へやってきたのではないかとさえ思う。
音楽を聴いて何か納得できるようなことなど一つでもあってたまるものかよ、と今敢えて言わなくてはいけない気がする。音楽をそのへんの手頃な日本語でもってブロック状に固めテトリスよろしくちょろちょろっと配置していくことは、収まりが良いというだけで、何かものがわかるというようなこととは全く別のことだし、だいたいそんなのはちっとも音楽的な行為とは言えない。しきりに反省するばかり。
聴いたことがないジェーム・チャンスの音源を求めてユニオン(本館)に行ったところ、ZEレコードの紙ジャケシリーズが何点かあり、まあまあ安かったので、The Flaming Demonicsと併せてCasino MusicのJungle Love 、WaitressesのWasn’t Tomorrow Wonderful?を購入。ついでにBlondieのベストも。中古センターほうにも行ったら49 Americansの二枚目がありなんとなく購入してみる。自分のツボを抑えたなかなか手堅い買い物。果たして本当にこれで良いのか。未だ全然消化できていない70年代アメリカンロックづいていた年末の買い物が奥のほうに追いやられてしまった感もあり。
gleeでも取り上げられたWaitressesの”I Know What Boys Like”のポップさは奇跡としか言いようがない。シンプルさとギミックの妙味。どうしたらこういう曲ができるのか謎。
Waitressesのドラムはテレヴィジョンのビリー・フィッカ(”I Know What Boys Like”で叩いてるのは別の人らしいが)で、見た目と凉しそうにドラムを叩く姿がなんとなくが林立夫似。
翌日、馬場のユニオンに行ってみると、Eggの一枚目から三枚目があり迷う。しかし思い切って大人買い。帰って聴いてみると良い感じだった。特に三枚目。管楽器が入っていて、ZNRとかThe Muffinsとかの雰囲気に近い。一枚目にはジョン・セバスチャン調の曲があり心安らぐ場面も。そういえば一枚目はなぜかタイラー・ザ・クリエイターがフェイバリットに挙げていた。去年ピッキオ・ダル・ポッツォの一枚目を入手して全然聴いていないことを思い出した。
MASAのハピネス便り
寒い。冬だからそれはあたりまえのこと。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」というけれど、春分までまだ二ヶ月も残されている。地元の小学生がベンチコートを普段使いしていたことを思い出して羨ましくなる。
今が冬であるという理由だけで軽軽しく「寒い」と口にしがちだが、コンビニや飲食店、電車などは暖房が効きすぎているのでむしろ暑い。夏は夏でどこも冷房が効きすぎているので寒い。本邦において外国人の薄着がよく揶揄の対象となっているが、極端なエア・コンディショニングにこだわる我々が果たして彼らを笑うことができるのか。
ロケットの打ち上げとでも言わんばかりの、季節に真っ向から逆らう温度設定は「わかりやすさの追求」というこの時流を反映したものであると考えられる。暑いとか寒いといった皮膚に対する過剰な刺激が感じられない場合、エアコンは動作していないものと同様であると見なされてしまう。暖かいとか涼しいと形容できる快適な温度では満足できず、せっかく電力を使用してエアコンをつけているのに寒くも暑くもないだなんて電力の無駄遣いではないかとついつい感じてしまう。いわゆる「温圧戦争」と呼ばれるものはこのような感覚に起因する。
我々の感覚がここまできてしまった以上、この土地にはもはや暑いところと寒いところしか残されていない。人々は「調度良い」という概念を忘れてしまったのだ。中庸というものがプラスでない限りにおいてゼロではなくむしろマイナスであると勘定されてしまう昨今において春と秋だけが空調のオアシスと言えよう。冬来たりなば春遠からじ。
昔から「その人の温度設定を見れば楽器の上手い下手がわかる」というがたしかにその通りで、夏場に冷房の設定を18度にする者などは、楽器をやらせるとやたら音がでかくてそのうえ抜けが悪く、聴いていて耳が痛くなるだけの演奏をする者が多い。
忘年会や新年会など、冬に行われる飲み会で、一番楽しい気持ちになる瞬間は決まってお開きになってお店の外に出されたときだ。冬場特有の室内の淀んだ空気から解放されて、冷たい外気に触れるとアルコールで弛緩しきった頭が冴え出すし、外の空気は室内よりも酸素の濃度が濃いから脳が活性化し、かなり良い気分を得ることができる。そこで解散ということになれば気分の高揚のやり場に困ってしまうから、二軒目行きましょう!ということになるのだが、改めて店に入るとやはり落ち着いてしまい、ぼーっとしがちである。そして、それでも尚快楽を求めんとする心からなんとか用を作って外に出たくなってしまう。居酒屋を抜けだして一人でコンビニに向かうときの高揚感もまた冬場の飲み会の醍醐味のひとつである。
今はただ、バラエティ番組の影響下にない飲み会が増えることを願うばかり。また、会ったときに時事ネタについて話さないで済む間柄がいかに貴重なのか最近わかってきた。
某日、シネ・リーブル池袋で「ストレイト・アウタ・コンプトン」鑑賞。イージー・E役の俳優がダウンタウンの浜ちゃんに似ていて、意識のどこかで「これは浜ちゃんにまつわる話である」と思って観てしまい、なぜか浜ちゃんへの愛が心の深いところで芽生えるという現象が起こる。しかし、浜ちゃんと「ストレイト・アウタ・コンプトン」は関係がないのだから、こんなことを言っていても何の意味もないのだが、少なくともこれはジェイソン・ミッチェルが演じたイージー・Eの人好きする人物造形があったからこそ抱いてしまう感情であるとは言えよう。小柄で声が高く、いつも笑みを浮かべ、周りにからかわれたときにははにかんで見せ、ストリート仕込みの賢さもあるが義理堅く、そして良く泣く。我々が愛すべき人物。
イージー・E、ドクター・ドレー、アイス・キューブの登場シーンからグループ成功あたりまでは思わずyeah!と快哉を叫ばずにはいられない展開の連続。特にドレーの登場シーン。ファンクのレコードの山の上にドレーが寝そべって、ヘッドフォンでロイ・エアーズを聴いてうっとりしているところを天井から撮影したシーンにこちらまでうっとり。これはスコセッシ的なものに滅法弱いということの証明でもあるが…
実話ものだから仕方がないことかもしれないが、後半はサービスのためだけのシーンが多くやや冗長に感じられてしまった。また気合の入ったポール・ジアマッティに胃もたれも。
これは映画とは直接関係のないことだが、映画を観る限りN.W.A.もやはり金銭がらみでもめており、なんだかモヤモヤしたので、念のため音楽ビジネスの本を何冊かamazonで注文してみた。その辺のことについてあまりにも知識がなさすぎるし。また、早急に弁護士との知己も得ないければいけない気がしている。しかし、うーん、これがなかなかに、ベターコールソウル。
時事ネタ的にも日本にシュグナイト的な人物が存在することが可能かどうか考えざるを得ない。ついでに今ものすごく「謝らないハリウッド(スキャンダルから見たアメリカ芸能史)」というタイトルの新書を書いて一山当てたいと思っている。まあ、いかにもなタイトルというだけでヒットするようなものでもないだろう。何が一山当てたいだ。ぬるい。あまりにもぬるい言説。自分の無力さに腹が立つ。
ところで、アイス・キューブの誕生日がいつだか知っていますか!1969年の6月15日。そしてなんと6月16日は2パックの誕生日!1971年生まれ。ちなみに私も6月16日が誕生日。さらにさらに6月17日はケンドリック・ラマーの誕生日!私と同じ1987年生まれ。驚愕のスリーデイズ。まさに双子座グラフィティ。
生きているとどうしても腐ってしまうことがあるが、同じ歳のケンドリック・ラマーが奮闘している限り、前向きな気持ちで物事に取り組まなくてはと思う。しかし…おい、オーシャン!2016年になっちまったぞ!ちなみにフランク・オーシャンも1987年生まれ。気合入れるのはフランク・オーシャンがアルバム出してからでいいやという気持ちもなきにしもあらず。
そういえば去年買ったドレーのアルバムは全然聴いていない。
月曜日は新代田FEVERにてDucktailsとスカートと対バン。Ducktailsの軽くて芯のあるドラムが心地良かった。ドラムというのは自分が思っている以上に軽く叩いても良い楽器であるような気がした。ドラムなんて叩く機会はないのだが。来月は同じく新代田FEVERでトクマルさん、Hei Tanakaさんと対バン。
「トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会」のお知らせ
この度、御茶ノ水のCafe 104.5にて「選曲家」としてイベントを開催するはこびとなりました。日取りは2月16日火曜日でございます。19時30分から二時間選曲いたします。
Cafe 104.5はブルーノートジャパンがプロデュースするカフェでございまして、美味しい料理とお酒が楽しめることは請け合い、不肖鳥居も舌と胃袋に響くような音楽をご用意してお待ち申し上げております。アドミッション・フリーいわゆる入場無料ですのでどうぞお気軽に。
お仕事帰りに、またはデートに。女子会、男子会、男女会、おひとりさま、おふたりさま、なんでもござれ、でございます。良い音響で音楽を聴きたいという方にもオススメです。最近良いスピーカーで音楽を聴いていますか?DJ中は案外手持ち無沙汰なので人間Shazamとしての対応も可です。
ついては皆様お誘い合わせのうえ、奮ってご参加いただけますように何卒よろしくお願い申し上げます。ぜひおこしくださいね。
以下、詳細ページです。
http://www.cafe1045.com/music/_2016_216_tue.php
次回のトリプルファイヤーライブは…
3776さんとMaison book girlさんと共演です。以下、詳細です。
2月11日(木・祝)下北沢SHELTER
SHELTER presents 3×40
開場 17:30 / 開演 18:30
前売 ¥2500 / 当日¥3000
出演 3776 / Maison book girl / トリプルファイヤー
チケット e+
ついては皆様お誘い合わせのうえ、奮ってご参加いただけますように何卒よろしくお願い申し上げます。ぜひおこしくださいね。
What a lovely diary!
週末は札幌へ。なぜこのタイミングで札幌へ行ったのか説明すると、その目的は至ってシンプルで、ライブをするためだ。移動手段は飛行機!
会場はすすきののCOLONYというライブハウス。ここのJCの音がとても素晴らしかった。素敵なJCとの出会いはギタリストにとって何よりの喜びである。
これは完全なる思い込みに過ぎないが、新宿、特に歌舞伎町にあるライブハウスのJCの音は他の場所にも増して固い傾向にあるように思う。音に焦げ臭いようなところがある。
オーディオマニアの間では電力の使用量が減る深夜のほうがオーディオの音が良いというのが定説らしいが、そうであれば歌舞伎町の近辺で営業するライブハウスのJCの音が良いはずがない。しかし実際のところはそれほど単純なものではなく、個体差であったり経年変化であったり様々な要因があるはずだが、そのように込み入った話題は専門家にお任せしたい。
アンプといえば神保町の試聴室にあったYAMAHAのJ-35がいかにも年代物といった見た目とは裏腹に素直な音がして良かった。このアンプを安く入手すべき、という気がする。
昨年、急にフェンダーの真空管アンプが欲しくなり、銀パネのChampという小ぶりのアンプを6万円で購入した。とても後悔している。全然使用していないことが原因だとは思うが。
ただの板にパーツを必要な分だけ取り付けただけのひたすら軽いギターはないものかと探している際に、マーク・リボーが使っているのを見て欲しくなったメロディーメーカーというギブソン製のギターを買うときも「何がなんでも欲しいというわけでもないんだけれど」という気持ちが5割ぐらいあったし、買ってからも「何がなんでも欲しかったというわけでもないんだけれど」という気持ちが5割ぐらいあった。そのあたり見抜いていたのか、買う前に「本当に欲しいの?」と聞いてきたのは吉田くんであった。それはさておき、購入しても片手で万歳ぐらいの中途半端な気持ちだったものの、使っていくうちに後悔の気持ちも薄れていった。後悔という感情は案外揮発性が高いものかもしれない。
今買わなくちゃいけないような気がするダンエレクトロの12弦ギターを実際に買って後悔したとしても使っていくうちに忘れてしまうだろう。だから問題は買った後に押し寄せる後悔の念に耐えられるかどうかということになってくる。
消費活動に関わる後悔から逃げる唯一の方法は、目の前の物欲から目を離さずにペダルを漕ぎ続けることだ。振り返れば死屍累々。真っ直ぐ前だけ見て買って買って死ぬまで逃げ続けるしない。物欲に対して検証を始めると、ドミノ倒しでただただ暗い気持ちになるだけなのであまり考えないのが吉。しかし、いらないものに対してはいらないと言わなければいけない時期が来ていると思う。そんなことを声高に言ったところで自分の首を絞めることにしかならないのだが。それでもやはり12弦ギターの音色を使った音楽を作らなくてはいけない気がしている。それも今すぐに。
ダンエレクトロの12弦ギターを買うか買わざるかという問題はとりあえず棚上げして、代わりに年末に買ったバーズのアルバムを聴いている。Fifth Dimension収録の“What’s Happening?!?!”という曲がお気に入り。中途半端といえば中途半端だが、そこがまた愛らしくもある。というかこういう地味だがキラリと光る小品が好きでたまらない。”What’s Happening?!?!”はデヴィッド・クロスビーの曲とのこと。60年代後半の西海岸のロックはあのモヤッとしたややマイルドな音の質感が苦手で今まであまり聴いてこなかったがこの辺りをもう少しちゃんと聴いていきたい。
バーズがらみでいうとヴェルヴェット・クラッシュもカバーしたDillard & Clarkの“Why Not Your Baby”はいつ聴いても何度聴いてもやはり名曲。弦のアレンジはニック・デカロではないかと予想しているのだが、どうなんだろう。A&Mだし。ネットではヴァンダイクパークス説も囁かれている。でもヴァンダイクパークスではないと思う。
ジーン・クラークのWhite Light冒頭の“The Virgin”も素敵。流れでトム・ウェイツの“Hang Down Your Head”が聴きたくなる。やはりマーク・リボーのギターが聴き物。20代前半はこういうギターを弾く予定だった。いやまだ諦めてはいない。今でもエレキギターを用いた表現とはこのように行われなければいけないとさえ思っている。ここまできたらアレックス・チルトンのギターも聴かねばなるまい。エレキギターかくあるべし、というひとつの極点。どう考えたって。
戻り日は(北海道の話です)自由時間があったので、スピルバーグの新作「ブリッジ・オブ・スパイ」を観に行くことにした。目当ての映画館が札幌駅のすぐ近くにあるものだと予想していたら駅から少し離れた場所のショッピングモールの中にあることが判明し、バスに乗って移動。始めの15分ぐらい見逃してしまい、前方右側の席だったからスクリーンが平行四辺形で、更に寝不足のため途中で寝てしまったが、終盤から号泣。「ザ・マスター」でのフィリップ・シーモア・ホフマンの息子役が個人的にツボだったジェシー・プレモンス(橋本治似)の姿を確認。彼はCowboy and Indianというバンドでボーカルとギターを務めているそうだ。Cowboy and Indian (Featuring Jesse Plemons) “Trouble” at The Texas State Capitol 意外や意外、真っ当なアメリカーナ!
やはり北海道へのエフェクター類を持っていかなかった。スティーヴ・クロッパーやボビー・ウーマックを捕まえてわざわざ「アン直ですね」という人はいないだろうから、アン直を指摘されているようではまだまだ三流なのだろう、と最近よく思う。
ところで…(By The Way…)
いくつ?どこ住み?告っても良い?次回のライブ。
1月18日(月)新代田 FEVER
「ダムダム新年会!DUM-DUM NEW YEAR PARTY」
開場 18:30 / 開演 19:00
前売 ¥3500 / 当日 ¥4000(+D)
出演 DUCKTAILS / スカート / トリプルファイヤー
http://dum-dum.tv/
ローソンチケット(Lコード:79304)/ e+
今月はあとこれだけ。どうぞよしなに。ポジティ部!もちろん良い意味で。
スーパー楽しい日記!
みんな!明けましておめでとう。今年も「Notoriious B.l.G.」をよろしく。
大晦日はユニオンのセールで散財。最近は70年代のロックへの欲求が高まっているのでその辺をメインに物色。一口に70年代のロックといっても様々だが、産地でいえばメンフィス、ナッシュビル、マッスルショールズ、ウッドストックあたり。実際に買ったのウエストコーストのバンドが一番多いと思われる。加えてそのようなアメリカ音楽に影響を受けた同時代のイギリスのバンドも。
久々に東京で年を越して、元日の夜に新幹線に乗り帰省。22時30分頃地元に到着。駅前でおともだちにピックアップしてもらいそのままモンテローザ系列の居酒屋で飲んだ。(便所に行ったら「親父の小言」が貼られていた!最低!読んでみると良いことがたくさん書いてあった!しかし最低なものは最低!)今年はいつもの面子に加えて成人式以来会っていなかった友人がいたので旧交を温めた。
初夢はきゃりーぱみゅぱみゅのスタッフになるという内容だった。夢の中のきゃりーぱみゅぱみゅはNHK好きのする素朴な愛くるしさがあり、仕草の一つ一つがとてもキュートで、彼女が視界に収まっているだけで幸せな気持ちが充満する空気の層に包まれて体が宙に浮くような心地だった。こんな幸福な日々がこれからしばらくの間続くのかと思うと期待で胸がはちきれんばかりだったが、目が覚めてそれが夢であることを知ると、心から惨めな気持ちになってしまった。結局夜になってもその悲惨な気持ちを拭うことができなかった。こんな初夢を見るぐらいならばいっそ悪夢にうなされるほうがいくらかましだろう。なぜなら目覚めたときに安心できるから。
昔、夢日記をつけてみようと思い立ち、ついでに河合隼雄が明恵上人について書いた本を読んでみたところ、明恵上人の見る夢は志しの高さを表したようなものばかりで、身近な人物に叱られる夢ばかり見る自分が情けなくなったから夢日記をつけるのは止すことにした。このご時世を反映したようなあまりにも酷い初夢にそんなことを思い出してしまった。
そんなこんなで三が日(ところで、三ヶ日みかんは美味しい)が過ぎ、新幹線で帰京。Uターンラッシュの混雑を避けるために名古屋駅付近の映画館で「スペクター」を観て時間を潰したものの結局座れず立ちっぱなし。タブレットで「シンドラーのリスト」を観て過ごした。品川に着いて席が空いたので腰を下ろしたところ、黒い革のロングコートを着た男性が隣に座ったでほんの少しだけ驚いた。
年が明けた今「飽き」の大波が大挙しており、全てのことがつまらなく感じられて、何事にも今ひとつ身が入らず、下手に何かしたところで虚しさは募る一方。言うなれば「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の4番状態。こういう状況は一年に一回くらいのペースで必ずやってくる。だからそれなりに対処の仕方も心得ている。そんなときはJBの音楽を聴くに限る。ファンクやヒップホップのリズムに対して体が心地良いと反応するようであれば当面は大丈夫!すべてが!(ガンダムに殴られているような音楽はもう・・・・・・)
ついでに言っておきたいのは「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の3番の歌詞を全面的に支持するということ。ネットにありがちなエモボーイのぬるいニヒリズムなんぞは害悪以外の何ものでもない。田舎の中学生じゃあるまいし。ずっと横になったまま溜飲を下げて下げて下げ続けるのか、今際の際まで、スマホ片手に。人を呪わば穴二つ。そういう気持ちちゃんと持ってますか。
ものごとの全ては結局「やるか・やらないか」の二進法でしかなく、やる気の有無なんぞはお子ちゃまの戯言に過ぎず本来すこぶるどうでも良いことだ。しかし我々は経験から学んでいる。前向きな気持ちで何もしないことが一番経済的だということを・・・
なんてね!さあ、2016年も張り切っていきましょー!がんばるぞー!ウキー!!ポジティ部!
2015年ベストアルバム
今年購入したアルバムのうちいわゆる新譜というものの枚数を数えたら13枚しかなかったので、これを羅列したらそのまま年間ベストが出来上がってしまうという体たらくで何とも情けない。とは言ったものの微塵も情けないなどと感じていないのが正直なところで、そもそもの話、2015年という年にあまり興味がないし、年末のせいか今は2015年という年がトレンドみたいだけど、年が明けたらすぐに2016年が流行り出すに決まっているし、2016年なんてさらにどうでも良いし、もっと言えばこんな頓知が利いている風でその実何の意味もないことを書いていても何の意味もないし、こういうのをトートロジーと言って、日本語で言えば同語反復っていうんですか、とまあそんなことはどうでも良いけど、このトートロジーという単語を教えてくれたのは大学時代のサークルの先輩で、ここでこの人の逸話を紹介したいと思います。
その先輩は入学してからの4年間、どこのサークルにも属することなく過ごし、留年が決まった年に開き直ってサークルに入ることを決意し、予てから目をつけていた趣味の合いそうな音楽サークルの部室の前まで来て逡巡を振り切るとドアをノックしたそうな。部室にいた者に自己紹介やら身の上話やらしていく中で「今まで一人で何してたんですか?」と聞かれたので、先輩は「歌は孤独なもんだと思ってました」と返答したとのこと。
この言葉を聞いてから、折に触れて「ああ、歌は孤独なものだよなあ」としみじみ感じることがある。「無人島レコード」という定番の企画に対して、持っていくも何もここが無人島だよ、寄る辺なんかあるものかよ、と思うこともある。
「歌は孤独なもの」というのは「歌は個人のもの」と言い換えることができるかもしれない。今ここで、余計なものなどないよね、と同意を求められたらNOと言わざるを得ない。いくらSAY YES〜♩と言われようと。チャゲ、アスカ問わず。世の中には個人とは何ら関係のない余計なこと・ものが溢れている。例えば他所の年間ベスト。そんなものは我々の営為とは何ら関係がないと端からわかりきっていることなので放っておけば良い。しかし目の前にあるとついつい手にとって覗いてしまうのは悲しき性か心の弱さか。馬鹿なのでやはり見てしまう。SNSで回ってくるような共感とブーイングの二枚刃構成でどっちに転んでも結果ビュー数は稼げるというのがコンセプトのとても品のないマイルド文化人が時事ネタで放談したような安手の記事を視界に入れないようにする能力は今年かなりついた。buzzって虫の翅が発する音のことだそうですよ。一体どの虫なんだ!
だからもうはなっから埒外だって思っていたほうが良い。自分が参加していない飲み会で自分の話題が出たかどうか気にするようなもので、それはとってもみっともないことです。自分さえちゃんとしていれば良いじゃないですか。
ところで今話題のスターウォーズを観に行った。ここ一月ぐらい宣伝がものすごいことになっていたので、スニッカーズに衣をつけて油で揚げたお菓子を1日に4、5本ほど無理やり食わされているような気持ちになっており、その結果食傷気味になり、儲けなくてはならないにしろいくらなんでも品位を落としすぎではなかろうかと感じていた。水道水に広告が入る日も近い、なんて思ったものだが、しかしよくよく考えてみたら宣伝というものはそもそもくどいものなのかもしれない。景気の良い頃に思わず「いいよなぁ」とつぶやしてしまうような気の利いた広告がウケていただけであって。
例えばビラ配りのバイトをしている際に、通行人の迷惑にならないように慎ましく配ろうとしても監督役の者からもっと積極的に配りなさいと注意を受けること必至だ。たまたま自分がSWという花粉に対してアレルギーを持っていたために妙に意識してしまっただけで宣伝はいたるところにあるものなのだろう。ヨーダが言うところのForceのように。明日試しに視界に宣伝が入る度に指差し確認して我々がどれだけ宣伝に囲まれて生きているのか実感してみたいと思う。しないけど。
それで劇場に行ってスクリーンに例の黄色いロゴが出て瞬間、あ!関係ない!と思いましたね。宣伝とSWは何の関係もないと。深酒した翌日、夕方頃に二日酔いの症状がフェードアウトして丹田が温かくなり、その熱が体中に巡っていくときのあの快感のようなものが感じられたし、分厚い雲が割れてそこから光が差して地上を照らすといった図が脳裏に浮かぶほどの感動もあった。だから結局体験っていうのは個人のものでしかないということなのだろう。そして宣伝は個人のものにはならないという話。現象なんてもうどうでも良い。本当に、心から。だから、今むしろ「関係がない」ということはとても良いことだと思う。「関係がない」という関係のあり方。「放っておく・放っておかれる」と言い換えても良いかもしれない。「いっちょかみ」という関西方面の言葉があるけど、これがなかなかに地獄だ。
ええ、なんて無茶なことを言っておりますが、というさりげない逃げ口上を挟みつつ、少し話題を変えよう。「最近何聞いてんの?」っていう質問って良いと思いませんか。かしこまって「どんな音楽が好きなんですか?」と聞かれるとこっちもかしこまってうまく答えられないし、そこで「ひとつ選ぶの難しくないですか?」なんてことをいうと「たくさん聴いてる」という自惚れっぽく受け取られるのが常だし、まあ、相対的には聴いてるほうだけど、相対的には全然聴けてないもんね。CDの山見てしみじみとこれものにできてんのか?ええ?って思う夜もある。「ひとつ選ぶの難しくないですか?」というのが自惚れに聞こえる人はそのへんのことがよくわからないのだろうね。
だから年間ベストとかより「最近何聴いてんの?」のが全然良い。無人島からイカダ出して近所の島に出かけてくみたいで素敵じゃないか。今年はたぶんトータルで5回ぐらいしか聞かれてないけど。それが多いのか少ないのかはわからない。年々減っていることだけは確実。自分もあまり人に聞かないし。地殻変動が起こっちゃってる。そんな世間話を交わした人たちも今や散り散り。パンゲアの頃が懐かしいな!
マヌカンハウス刊『リュダクリス』No.812 特集「やっぱり遅刻。」
「餅は餅屋」なんてことを言いますが、遅刻についてもやっぱり専門家に聞くのが一番!というわけで気鋭の遅刻家、今沖田寝坊(いまおきた・しんぼう)さんに詳しく語っていただきました。
遅刻の反対語って聞いたことがありますか?「早刻」といったところでしょうか。そんな言葉はありませんが、世の中には予定の時間よりも大幅に早く所定の場所へ着いてしまう人が少なからずいます。例えば試験会場などに一番乗りして最前席をキープするような人です。何となく要領が悪くて融通が利かないような印象を人から抱かれがちなタイプです。几帳面そうに見えるいっぽうで寝癖を気にしていなかったりと、どこか鈍感な面も見受けられる。学生の頃、授業中に頓珍漢な質問を繰り返しては教室を微妙な空気にさせたクチかもしれません。
こうした「早刻」にまつわるステレオタイプをものすごく単純に裏返してみます。すると「遅刻家は要領が良くて融通無碍である」ということになります。いわゆる「ハイスクールの人気者」タイプですね。教室に一番最後に現れて、一番後ろの席に座るようなタイプの人物です。そしてここぞというときにだけ能力を発揮して結果を残すような人物でもあります。
当然、現実はそれほどシンプルではありませんが、多くの人と同様に遅刻家もこのような融通無碍で天衣無縫な人物像をセルフ・イメージとして抱きがちです。
また、現代を生きる者にとってテレビに出ているお笑いタレントのようにおもしろい人間であろうと努めることは人生の優先事項となっていますが、遅刻家の場合、生活態度を改めて一切の遅刻を止めた途端ユーモアセンスを失ないつまらない人間になってしまうのでは、と不安に思う人が少なくないようです。世事に囚われない越境的な身振りと、杓子定規から程遠い大らかな性格が独自のユーモアセンスを形成していると考えているのです。「時間通りに行動する?お役所じゃねぇんだから!」といった具合に…
遅刻家にとって遅刻はもはやアイデンティティの一部となってしまっているので、いまさら引くに引けないという状況に嵌りがちです。漫画を読んでいると頬や目の周りなど顔の一部に傷跡が残るキャラクターが出てくることがありますよね。遅刻はああいった傷のようなもので、それが瑕疵であろうと当人のキャラクターを示す愛すべきトレードマークと認識されています。他人からすれば「ホクロ毛」のようなものかもしれないにも関わらず。遅刻家はステッカーを見ると思わず貼ってしまうタイプといえるかもしれません。近代以降を生きる自意識が肥大化しすぎた我々には特性になり得るものなら何でもペタペタと貼ってしまうという悲しい性があるのです。
人間が社会に参加して生きていこうとすると磁石のように二つ極が発生すると私は考えています。二つの極はそれぞれ「他人から受け入れられたい」という極と「他人を受け入れたくない」という極です。
まず「他人から受け入れられたい」という極についてですが、この態度が世に擦れて屈折したりすると他人にとって迷惑な行為となって現れる場合があります。例えば、くしゃみや咳をするときに口を覆わなかったり、人前でゲップしたり、密室で放屁したり、クチャクチャと咀嚼の音を立てながら食事したり、電車の座席で幅を広く取って座ったりといった行為です。これらの行為は迷惑であることが前提であり、そのうえで他人に我慢を強いることないし受け入れさせることでその行為がある種のコミニュケーションとして成り立っています。簡単に言えば子供のぐずりみたいなものです。文化人がいうところの日本人特有の「甘え」なんてものかもしれない。
私はこのような性質を帯びた極を「オジサン極」と呼んでいます。先に挙げた「オジサン極」による迷惑な行いは「空間に対して働きかける迷惑行為」であるといえるでしょう。そして遅刻については、それほどの生理的嫌悪感はないにしろ、その行為を他人に受け入れさせるという点で「オジサン極」に含むことができると考えています。さらにいえば、遅刻は「オジサン極」に由来する「時間に対して働きかける迷惑行為」だと云えます。パブリックな時間の取り分を人よりたくさん頂いているわけですから。
「食い意地を張る」なんて言葉がありますが、遅刻は「時間意地を張る」と言い換えることができるかもしれません。公の時間に対して一切の遠慮がないわけです。フロイトが云うところの肛門期に我慢を覚えられなかった人ですよね。
さて、もう一方の「他人を受け入れたくない」という極についてです。世の中には「オジサン極」的行為を絶対に受け入れたくない、全くもって許せないという人も当然います。所謂「嫌煙家」なんてのはそういう人たちです。他人の許しがたい行為に対して嫌悪感を露骨に態度で表していくタイプの人もいるし、それが度を越せば「オジサン極」的行為に限らずあらゆることに言いがかりをつけるクレーマーと呼ばれる人物になっていきます。これを「オジサン極」に対置するためにわかりやすく「オバサン極」とでも呼びましょうか。
まぁ、クレーマーなどはほとんど「オジサン極」の属性と言えてしまうので、そこが難しいところではあります。彼らの言い分は「私を特別扱いしろ」ということですから。どちらの極についてもその根っこには「私を特別扱いしろ」という思惑があるような気がします。
これらの極は通常、誰の中にも並列に存在しているものです。環境によってそのどちらが強く現れるかということでしかありません。
例えば遅刻家を100人集めて会社を作ったとする。そうするとそれぞれの遅刻の度合に濃淡ができますよね。遅刻家のなかでも軽度の人なんかはそういった環境では基本的に待たされることが増えるわけですから、自ずと「オバサン極」の表出が強くなっていくと考えられます。そして段々と他人の遅刻に苛立ちを覚えるようになるでしょう。最終的に全く遅刻をしない非遅刻家に転向してしまうかもしれません。
だから、身近に許しがたい遅刻家がいるのなら、自らがよりシリアスな遅刻家になることですね。とにかくその人を待たすようにすれば良いのです。平気で一時間遅刻する人がいたとしたら、そこからさらに一時間遅刻するようにする。都合二時間の遅刻です。これはかなり深刻な遅刻ですよ。ぞくぞくしますね。
しかし、不思議なことに、このような場合においてもお互いに張り合って遅刻競争が起こるなんてことはほとんどありません。なぜか遅刻家に遅刻家をぶつけるとぶつけられたほうは必ず「オバサン極」が強くなるのです。遅刻家の口から「あいつおっせぇな…」なんて言葉が聞けるかもしれません。「どの口が!」という指摘は言うだけ野暮でしょう。
「遅刻とは何か?」と尋ねられたら「弛まぬ思考停止の集積」であると身も蓋もなく答えています。
思考停止というのはとどのつまり物事を言語化するのを一切やめてしまうことですよね。遅刻しないように約束の時間と場所に到着するためには、そこから逆算してどういうタイムテーブルに則って行動すれば良いか考える必要があります。慣れない場所へ行かなくてはいけない場合は、電車の乗り換えだかと所要時間を調べたりしなくてはいけません。地図で道筋を確認することも必要です。つまり遅刻しないためには、行動を分節化してそのひとつひとつを言葉や数字に変換していかなくてはならない。まあ、そういったことは誰にとってもめんどうなものなわけです。だから人によっては、全て棚上げして寝てしまえとか、そういうアプローチが生まれてくるわけです。
寝るなんて最高の棚上げですよね。これこそ極上の思考停止です。プレミアム思考停止ですよ。そこに寝坊なんておまけがついて来た日にはもう堪りません。多くの遅刻家が「寝坊は天災」と考えていますが、私に言わせれば甘い。私は寝坊のことを「戦略的思考停止」と読んでいます。寝坊はより高次元の思考停止であるといえるでしょう。
喉元過ぎれば云々ということわざがありますが、遅刻も一緒で、到着していの一番に「すいません!」と謝ればそれでもう一件落着となってしまいます。これはなぜか。
大勢の前で遅刻した人物を咎めると「被害者-加害者関係」が逆転してしまいがちです。傍観者からすると叱られているほうが可哀想になってくる。遅刻した者のほうが周りの同情を買うわけです。だから待たされたほうもなかなか怒るに怒れないというところがあります。「おまえは官僚的だ」なんてレッテルを貼られてしまうかもしれない。そんな悪役を買って出るような人はかなり奇特であるといえるでしょう。
このような理由から遅刻は謝ってしまいさえすれば済んでしまうので、なぜ遅刻したのかということを言語化する必要はありません。そうすると失敗から教訓などは得られないし、経験が次に生きてこないのです。全てが場当たり的なのです。こういうことからも遅刻は「弛まぬ思考停止の集積」であると云えるでしょう。
遅刻癖が治りにくいのには他にも理由があります。例えば、遅刻で誰かを怒らせてしまったとします。それで反省して、次から遅刻しないように気をつければ済む話なのですが、人は誰でも自分の非を素直を受け入れることがなかなかできません。ですので、相手が怒ってしまったのはその日たまたま虫の居所が悪かっただけなんだと遅刻家は考えてしまいがちです。いつもだったら、この程度の遅刻に対して「まったくオマエってやつは」と半ばあきれながら笑って許してくれる。今日はきっと間が悪かっただけなんだ。そう考えると、それを証明したくなってくる。つまり、再度遅刻して相手の反応を確かめたくなってくるのです。それで実際に遅刻してみるとまた怒られるわけです。それでも遅刻家は今回もたまたま間が悪かっただけなどと考えて、再び遅刻してみて様子を見る。しかし当然注意を受ける。この堂々巡りです。ある種の反復行為ですね。許してもらえるまで遅刻家は遅刻を続けるのです。厄介なのは、許してもらうことができたら今度はもう一度許されたい安心したいと考えて結局遅刻してしまうことです。どう転んでも遅刻家は遅刻家なのです。
最後に、これはとても大事なポイントなのですが、遅刻は謝り上手でなくてはできない芸当ということです。
謝り方のコツは相手の「器」に謝罪をドバドバ注ぐことです。これを受けきれず溢れさせてしまえば相手は「器」が小さいということになりますから、決してケチらずにありったけの謝罪を注ぎ込むことです。溢れさせたらもうこちらの勝ちです。先輩の遅刻家で「遅刻は器のチキンレース」なんて名言を残した人もいます。ちなみに私は「遅刻は和解の物語」とよく言うのですが、これはあまりヒットしていませんね。話が逸れましたが、何が言いたいかというと遅刻家は謝罪家でもあるということです。反対に謝ることができない遅刻家は遅刻家失格といえます。
待たされたほうも、それだけではただの待たされ損にしかならないので、この機会を「器」の大きさをアピールするチャンスだと思って存分に活かしていただきたいですね。
いや、本日はご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした!
トリプルファイヤー ワンマン「アルティメットパーティー」
昨日、渋谷クアトロで行われたトリプルファイヤーワンマンライブ「アルティメットパーティー」にお越しいただいた皆様、誠にありがとうございます。盛況のうちに終わりほっと胸を撫で下ろしております。
企画名の「アルティメットパーティー」というのは、渋谷を走っていた「アルティメットパーティーバス」からいただいたものです。
渋谷でレンタカーを借りて、さぁこれから遠征に向かおうというときに東急の側の信号で停車していると、外の様子がどうもおかしい。一同なんだなんだと目を向けると、軽薄な音楽、軽薄な照明、軽薄な若者を詰め込んだ重厚な造りのバスが走っていくではありませんか。バスの側面に書かれた文字に目を凝らすと、そこには”ULTIMATE PARTY BUS”の文字が。
それから数日後、渋谷のスタジオで練習した帰り道、駅に向かって歩いているとまたも喧しい音が聞こえてきました。案の定、その音を放っているのは”ULTIMATE PARTY BUS”でした。乗客は窓から身を乗り出し往来の歩行者に向かってケバケバしいサイリウムと笑顔を振りまいている。私はすかさずその様子をinstagramに収めました。近くにいたスーツ姿の男性が「人に見られるのが嬉しいんだろうね」と冷めた調子で同行の者に吐き捨てていたのが印象的でした。
昔から踊る阿呆に見る阿呆云々と言いますが、果たしてどうなんでしょう。そんなポジティブに見える文句でさえもさる事情で入手したサングラスをかけてみると”OBEY”だの”CONFORM”だのと書いてあるように見えるんですが、気のせいですか。
さて、毎度お馴染みの場内BGMについてです。
クアトロの本番前、場内のBGMについて「またブログに書くのかな?」という声があったそうで、そう言われるとなんだか恥ずかしくなってしまうのですが、書きますよ、そりゃもう書くに決まってるじゃないですか。というわけで、以下曲目となります。
- Lamuka – Zazou & Bikaye – Noir Et Blanc
- Same Brown Earth – Latin Playboys – Latin Playboys
- Correio Da Estação Do Brás – Tom Zé – EsCorreio Da Estação Do Brás
- Strativari – Picchio Dal Pozzo – Abbiamo Tuttu I Suoi Problemi
- Nicolas – Etron Fou Leloublan – Les Poumons Gonflés
- Legs – Massacre – Killing Time
- Hear My Brane – The Soft Boys – the Soft Boys 1976-81
- Reign Of Pain – Mallard – Mallard
- Caravan – Marc Ribot – Requiem For What’s-His-Name
- The Mooche – Aksak Maboul – Onze Danses Pour Combattre La Migraine
- Vapona,Not Glue – Aksak Maboul – Onze Danses Pour Combattre La Migraine
- Harlem Nocturne – The Lounge Lizards – Lounge Lizards
- Third Man Theme – The Band – Moondog Matinee
- You Hit the Nail On the Head – Funkadelic – America Eats Its Young
- Crosstown Traffic – The Jimi Hendrix Experience – Electric Ladyland
- You Can’t Kill Me – Gong – Camembert Electrique
- N.I.B. – Black Sabbath – Black Sabbath
- Andra satsen – Gregory Allan FitzPatrick And Samla Mammas Manna – Snorungarnas symfoni
- Casablanca Moon – Slapp Happy – Casablanca Moon
- As Time Goes By – Harry Nilsson – A Little Touch Of Schmilsson In The Night
当日、途中でiPodの充電が切れるというハプニングなどがあり、どこまで会場で流れていたのか不明です。当日使用したiPodは8年ぐらい前にもらった友達のお下がりなので、おそらくバッテリーが死んでしまっているのでしょう。
今回は特にテーマを設けず、適当にプレイリストを作成しました。結果的に「初心に還った」という趣になっていますが、むしろ「パターンにハマった」と言ったほうが適切かもしれません。最近は「淀みから抜け出す」ということが個人的なテーマになっています。我が家の食器が溜まったシンクを見る度に思うのですが、淀みの水って本当に腐りやすいですよ。あの臭いって本当に最低ですよ。まあそれはそれとして。
基本的にプレイリストは「しりとり」とか「マジカルバナナ」(きっと若い子には通じない)というような考え方に則って作成しています。ただし今回は所ジョージのような華麗な解答(きっと若い子には通じない)を狙わないで、いつもよりも大雑把にプレイリストを作成しました。しかし改めて見直してみると意図していなかった「エリントン」とか「カサブランカ」といった繋ぎのキーワードが現れてきたので、俺の無意識もなかなかのもんだねと感心してしまいました。とは言っても、そこまで気が利いているわけじゃないのですが。
前日にまとまった時間を拵えることができたので、今回も一本のMIXにまとめることができました。それを例によってMixcloudにアップしましたのでお暇なときに聴いてみてください。
年内の都内でのライブはクアトロワンマンをもちましてを全て終了いたしました。東京近辺の皆様は来年もご贔屓のほど何卒よろしくお願い申し上げます。仙台、福岡の皆様は年内にお会いできます。いかがです?どうぞよしなに。
朝晩はめっきり寒くなって参りました。くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。
ULTIMATE PARTY by Notoriious on Mixcloud
24ビート入門

「16分の3連符がある。24ビートという様なものは無い」なんてことを言った人がおります。
好きなグルーヴの一つに「ハネた16ビート」というものがある。英語で”16th note triplet feel”と表記したほうがわかりやすいかもしれない。
大きな揺れの中に細かくてシャープな揺れが内在する、腰から発生したリズムの波が体の先まで伝播して、そこから再び腰まで返ってくようなあのグルーヴですよ。
ところで、「グルーヴ」という単語は曰く言いがたい何かしらの魅力を言い表すときの「彼にはオーラがある」「彼女にはカリスマがある」といった表現と似た感じで「彼にはグルーヴがある」というような使い方をされているが、そういうものとは別に「グルーヴ」という単語にはリズムの「フォーム」乃至「フォルム」のような意味合いがあるものだと理解している。(スティーブ・ジョーダンのDVD「Groove Is Here」を見よ!)
「フォーム」「フォルム」といったものは料理でいうところの器にあたるものだ。経験から言って食事をするときに器がないと困ってしまうことは想像に難くない。例えば職人が握った寿司をカウンターに直接置いてきたらどんな気持ちになる?食べられないこともないとはいえ…あるいはトンチンカンな器に盛られた料理を想像してみよう。例えばアイスパフェ用の器によそわれた白米なんてどうだろう。かようにして料理には器が必要だしさらにそれぞれの料理に適した器を拵えることも重要だ。音楽にも全く同じことが言えるだろう。(だからドラマーにはカウントで器の輪郭線を描いてほしい。あれは点を4つ打てば良いというものじゃない)まあ実際にはオニギリとかサンドイッチといった器を必要としない料理があるように器を必要としない音楽もあるので十把一絡げ(じっぱひとからげ)には言えないのだが。
「ハネた16ビート」というものに対しては、漠然と「通常の16ビートが名人のフィーリングによって良い感じに気持ちよくなったもの」ぐらいに思っていたのだが、これを1小節を24分割(=1拍を6分割×4拍)するビートだと捉え直すことで認識が改まった。演奏する者の体内には1小節を24分割するグリッド乃至パルスが予め用意されており、それに沿って(あるいは敢えてズラして)演奏されているのだと。「見かけの上ではわからないがウェブページを形作るのは裏側に書かれたHTMLである」といった話に近いのかもしれない。
分割というアイディアはかなり重要だろう。最初に一切れのピザを複数枚作り、それを後からくっつけて丸いピザを作ろうと思っても歪な形になるのと同様に、行き当たりばったりおっかなびっくり一拍またはフレーズひとまとまりを横にくっつけていっても良い塩梅のグルーヴのフォルム乃至フォルムは描けないのではないか。
こういった思いから1小節を24分割するということを強調するために、「ハネた16ビート」という表現をやめて「24ビート」と呼んだらどうだろうということを思いついたのだが、たぶんそのような呼び方は誤りである可能性がかなり高そうなのでここに記すに留めておきたい。おそらく一般的に24分音符というものがないので、自ずと24ビートもないということになるのだろう。
さらに「ハネた16ビート」にはストレート寄りでそこはかとなくハネているものから、かっちりとしたシャッフルあるいはスイングまでの間に濃淡があり、全てが24分割できるわけではない。「タッカタッカタッカタッカ」の「ッ」の幅は狭いものから広いものまで様々だ。
この前、バンドの練習の参考音源としてメンバーに聴いてもらうため、「ハネた16ビート」もとい「24ビート」の曲をまとめてプレイリストを作成した。普段はこのように参考音源を送りつけるといったことはしないのだが、口でああだこうだ説明するより手っ取り早いかと思いそうしてみた。効果の程は未知数だがまとめてて面白かったから後はどう転んでも別に良いやという気持ちが全体の八割程度。アンサンブルの向上を期待する気持ちも八割程度。数が合わないのが不思議で仕方がない気持ちも八割程度。合わせて二十四割。
思い込みを押し付けることになったらまずいので、候補として挙げた曲が、本当にハネてるのか、どれくらいハネているのか、都度再生しながら検証し条件に適うものであればiTunesのプレイリストに放り込むという作業を行った。
検証方法は、テーブルをパーカッション代わりにして、右手の人差し指でオモテの16分を刻み、左手の人差し指でウラの16分を刻むというもの。左手のタイミングが16のイーブンで割ったときよりも後ろに来ていればハネているということになる。その際どこにタイミングを合わせるかといえば概ねドラムで、右手はハイハットに合わせ、左手はキックやスネアのゴーストノートを基準に考える。右手だけでやったほうがわかりやすい場合もあり。興が乗ったら1拍を6連符で刻むということをする。そうすると今まで聞き逃していたパーカッションの6連符フレーズが聞こえてきたり、ギターやベースがオカズで6連符のフレーズを弾いていることに気付いたりして、楽しい。書道を習うときに文字のバランスを見るために方眼紙に書かれた文字をお手本としてを使うことがあるが、あれに近いところがある。音源に合わせて6連で刻むことはお手本に罫線を引く作業といえよう。
検証する際に注意しなくてはいけないのは先入観に惑わされないことだ。バカの一つ覚えで全ての音楽が24ビートに聞こえてしまいがちなので、なるべく小さい音を鳴らして音源に合わすこと。音源に溶けるまでひたすらやりこむと脳から美味しい汁が分泌されること請け合い。
6連符を刻む際は、大木を押すイメージを浮かべて実践するとよりグルーヴのフォルムが体感できるかと思う。木の幹をオモテの8分で押すと、その反動で幹がウラの8分で返ってくる。枝は幹の揺れが伝播して6連符を刻みながらワサワサしている。これの繰り返し。さらに、自分の体幹を文字通り木の幹、指を枝に見立てて6連符を刻むとかなり良い感じになるかと思われます。
最近はロックロックしたタテノリで演奏される8ビート(休符が圧縮されていて聞いていると息苦しくなるような無酸素の8ビート。粋で軽快な有酸素8ビートは大好物)の曲でもハーフタイムでリズムを捉えれば16ビートになることに気づき(あくまで自分の中で)、さらに、誰にも気づかれないレベルでそこはかとなくハネてしまえばそれはもう「ハネた16ビート」の出来上がりで、何事にも創意工夫が大事であることを実感し、また、友達がカラオケで歌っていたゆらゆら帝国の歌詞を思い出しながら、少し目の位置で何にでも変われるし、特定の局面においてもなんらかの楽しみ方があるのだと改めて感じた次第である。
このへんで件のプレイリストを一曲一曲みていこう。送りつけたものとは内容が変わっているけど、そんなの誰がわかるのかって話だ。
- Automatic – 宇多田ヒカル – First Love
- カサブランカ・ダンディ – 沢田研二 – 人間万葉歌 阿久悠作詞集
- What’s Goin’ On – Donny Hathaway – Donny Hathaway Live
- 都会 – 大貫妙子 – Sunshower
- Lonely Town, Lonely Street – Bill Withers – Still Bill
- Freddie’s Dead – Curtis Mayfield – Superfly
- Too High – Stevie Wonder – Innervisions
- N.Y. State Of Mind – Nas – Illmatic
- Look-Ka Py Py – the Meters – Look-Ka Py Py
- Choo-Chooガタゴト – 細野晴臣 – Hosono House
- Up On Cripple Creek – The Band – The Band
- The Girl Is Mine – Michael Jackson – Thriller
- I Am The Walrus – The Beatles – Magical Mystery Tour
- あまく危険な香り – 山下達郎 – OPUS ~ALL TIME BEST 1975-2012~
- 卒業写真 – 荒井由実 – COBALT HOUR
- Let Me In – Benny Sings – Benny… At Home
- Sugah Daddy – D’Angelo & The Vanguard – Black Messiah
- The Blacker The Berry – Kendrick Lamar – To Pimp A Butterfly
※ページ下部にSpotifyのプレイリストあり。
Automatic – 宇多田ヒカル
一番有名で且つ一番エグいハネ方をしているこの曲から始めよう。ハイハットの6連符を聴けばわかる通り、このトラックは1小節を24分割するグリッド上に音が配置されている。これはニュージャックスイング(NJS)という80年代後半に流行したメインストリームのブラックミュージックで採用された手法で、その元祖はテディ・ライリーとされている。
宇多田ヒカルが世に出てきた当時は「和製R&B」ということで喧伝されていたけど、今にして思えば和製ポストNJS歌謡といったほうが正確ではないかと思う。
ともあれ、自分の中でこのグルーヴのフォルムがわりとベーシックなものとして(「つつみ込むように…」「let yourself go, let myself go」「丸の内サディスティック」そして水曜深夜時代の「笑う犬の生活」の思い出とともに)根強くあるということを改めて感じる17年目の”Automatic”であります。
カサブランカ・ダンディ – 沢田研二
「早すぎた和製ポストNJS歌謡!」なんて呼びたくなるこのサウンドよ。完全にフィクションでしかないが…
「カサブランカ・ダンディ」と比較してみると、「Automatic」という曲がいかに歌謡曲/ブラック・ミュージック(ブラック・ミュージック分の歌謡曲)のアップトゥデート版という形で美しく結実したものだったのかわかる。(”Automatic”エンディングの泣きのディストーションギターを聴こう!)。「カサブランカ・ダンディ」をリハモした上で打ち込みのトラックを作り、宇多田ヒカルがフェイクを交えて歌えばわりと素直に”Automatic”になるのではなかろうかと思い脳内でシミュレーションしたところそうでもなかった。
日本人って結構このリズム好きなんじゃないか、という気がしてくる。「ルビーの指環」の例もある。ところでジュリーの声って本当に素敵ですね。
What’s Goin’ On – Donny Hathaway
名盤の誉れ高きDonny Hathaway Liveの冒頭を飾るマーヴィン・ゲイのカバー。「ああ良い感じだわあ」と思って何も考えないでベースラインをコピーしていたけれど、改めて聴いてみるとこれもハネた16ビートだ。
ダニハサのウーリッツァーに導かれてバンドの演奏が入ってくるところで、ベーシストであるところのウィリー・ウィークス(NOTウィキリークス!)が繰り出すのは6連符のオカズ。若干甘めのハネが都会的で且つ五臓六腑が温まるような滋味深い名演。
Donny Hathaway – What’s Going On
都会 – 大貫妙子
都会という単語が出てきたので「都会」。グルーヴの下敷きは言うだけ野暮かもしれないが”What’s Goin’ On”だろう。70’sモータウンマナーというか、スティービー~シリータのセンですね。
ベースはご存知、細野晴臣御大。ドラムはクリス・パーカー(ベターデイズおよびスタッフ!)。
話は変わるが、UFO Clubでライブして打ち上げに参加した帰り、深夜2時過ぎに中野付近をトボトボ歩いていたら、バーからカラオケで「都会」を歌う浮かれた調子の混声合唱が聞こえてきたことがあった。休日の深夜というお誂え向きのシチュエーションで「都会」を歌って盛り上がるというセンスに対してコンセンサスが得られている男女のグループって一体どんなだ。二次会には参加せずに機材を背負って小一時間歩く我が身との対比に思わず涙。現生では縁がなかったということで、うちへ帰ろう、いっしょに。
Lonely Town, Lonely Street – Bill Withers
というわけでロンリータウンのロンリーストリートを歩く私です。
タイトルからの安易な連想に過ぎないのかもしれないが、殺伐としたストリートの非常に厳しい雰囲気を醸し出すのはこのリズム感覚に依るところも大きいのではなかろうか。甘くてスムースなハネがある一方で、ドスの効いたハネもある。かなりビターな味わい。90年代の東海岸ヒップホップで聴くことのできるドスの効いたハネはこの辺りのイメージが援用されている、というのはこじつけか。ドラムはお馴染みジェイムズ・ギャドソン。
Bill Withers ” Lonely Town, Lonely Street “
Freddie’s Dead – Curtis Mayfield
ドスの効いたハネシリーズ第二弾。この曲ははっきりと24分割されてますね。
この曲をTV番組で披露したときの映像がYouTubeに上がっているが、そこでカーティスが6連符のカッティングをしててめちゃくちゃ格好良い。
70年代前半のアメリカ音楽が好きなんだけど、その理由の一つにハネてるからというのがあると思う。演奏する者の体内にあって半ばブラックボックス化していた「1小節を24分割するグリッド」が音として前景化するのはこの時期であろう。同時にブラック・ミュージックのリズム・セクションにラテン・パーカッションが登場することも見逃せない。
Freddies Dead – Curtis Mayfield
Too High – Stevie Wonder
ドスの効いたハネシリーズ第三弾。どちらかというと緊張感に満ち満ちたコードのほうにドスが効いているか。”Lonely Town, Lonely Street”、”Freddie’s Dead”、”Too High”はどれも1972年から1973年にかけて発表された曲。ドラムはスティービーが叩いているとのこと。というかコーラス以外全部スティービー。スティービーのハネた16ビートといえば”Sir Duke”のが一般的かもしれない。あと”Superstition”とか。
Stevie Wonder – Too High
N.Y. State Of Mind – Nas
名盤の誉れ高きIllmaticのプレリュード”The Genesis”が開けて始まりますのがDJプレミア製の”N.Y. State Of Mind”。ナズのラップはハネたりハネなかったり。超然とした態度がめちゃめちゃクール。
Illmaticは全編どのトラックにおいてもドスの効いたハネたキックが聴くことができる。ラップのトラックは基本的にハイハットの刻みが8分だ。隙間が多いほうがリズム的な遊びがしやすいのだと思われる。また、ありものの素材をレイヤー状に重ねて作ったトラックは複数のグリッドが内包されているため、聴いたときの印象として陰影のようなものをもたらす。だから、NJSのようにクオンタイズされたトラックと比べるとヒップホップにはアダルトな趣がある。同時にそれはある種のたどたどしさのようなものでもあり、その質感こそがヒップホップをヒップホップたらしてめているのではないかと思う。
プレミアのビートは、ラージ・プロフェッサー、ピート・ロック、Q-Tipらに比べるとハネ方が一番エグい。ファンの「クオンタイズは使ってますか?」という質問に対してプレミアは「使うわけねぇだろ!」と答えていた。
Nas NY State of Mind
Look-Ka Py Py – the Meters
ミーターズのハネ方は「ドスの効いたと」いうよりは、威勢の良いハネ方で、さしずめイキの良い魚と言ったところでしょうか。特にレオ・ノセンテリのギターはピチャピチャしてて魚っぽい。港町ニューオーリンズからの安直な連想か。この曲はガチガチのハネというよりニューオーリンズ流のバウンス感覚といったほうが良いかも。古めかしいスイング感覚が根付いているというイメージです。
The Meters-Look Ka Py Py.wmv
Choo-Chooガタゴト – 細野晴臣
遠征のときのテーマ曲(特に2番)。基本的に車移動だから厳密にはそぐわないのだが。
リトル・フィートをお手本にしたという話だが、ハネ方はミーターズばり。細野リズム史的には「あしたてんきになあれ」→「相合傘」→「Choo-Chooガタゴト」という系譜を辿ることができよう。ハネ方は段々とエグくなっていく。(ライブ!! はっぴいえんどの「はいからはくち」も含まれるか)
ところで、Hosono Houseのときの林立夫って結構ワイルドでポール・ハンフリーみたいじゃないですか。
Up On Cripple Creek – The Band
「下は大火事、上は大水。これなーんだ?」というなぞなぞがある。では「下はハネてる、上はイーブン。これなーんだ?」答えはザ・バンドの”Up On Cripple Creek”。みんなせーのでハネなきゃいけないっていう法はない。めちゃくちゃファンキーじゃありませんか。この曲のように個々人によってリズムの捉え方に濃淡のあるアンサンブルは何となくアメリカ的だと感じる。そしてそれはある種のとっつきにくさでもあるだろう。良薬は口に苦し、というとちょっと違うかもしれないが、ザ・バンドの音楽にはコクがある。そのリズムにも。
Up On Cripple Creek – The Band (The Band 5 of 10)
The Girl Is Mine – Michael Jackson
feat.ポール・マッカートニー!甘い!甘すぎる!軽く胃もたれしそうなこの曲はソフト&スイートで都会のレイドバックといった趣。ついついハード・オフの店内BGMを思い出してしまい申し訳なく思う。
ドラムはジェフ・ポーカロ。ベースはブラザース・ジョンソンのルイス・ジョンソン。時折入る16分の3連がニクい。
こういうサウンドにドゥーワップ調の低音コーラスをもってくるのがいかにもポールの味といった感じ。クインシーの指示かもしれないが。マイケルの歌声はマジでイノセント。
この曲を本歌取りしたであろうモニカとブランディという若きディーヴァが一人の男を取り合う“The Boy Is Mine”というビタースイートな歌もあります。
The Girl Is Mine – Michael Jackson & Paul McCartney
I Am The Walrus – The Beatles
リンゴのドラムってヒップホップみたいに聴こえるときがありませんか。90年代の東海岸ヒップホップのようにはキックがシンコペートしていないのだが、なぜだかヒップホップ的なハネが感じられる。オカズは例にもれずハネ気味。スネアの次にくるハイハットのタイミングが結構キモな気がする。
“Don’t you think the joker laughs at you?”という歌詞の後の”Ho ho ho! He he he! Ha ha ha!”という不穏な合いの手は3連符ですね。
“I Am The Walrus”以外にも”Let It Be”など結構気持ちの良いハネ方をしているように感じる。70年代前半のレイドバックしたファンキーさの萌芽がこの頃があったんでしょうね。
リンゴの叩くストレートな8ビートは聴いててとても気持ち良いけど、シャッフルの名手でもあると思っていて、端正でスマートなシャッフルを聴いていると文字通り心が弾むので大好き。”Old Brown Shoe”など絶品。ブルースというよりカントリー仕込みのシャッフルといった趣がある。
The Beatles – I Am The Walrus (HQ)
あまく危険な香り – 山下達郎
「ヤマタツリズム」という呼称(NOTヤマギシズム!)ももはや一般的とも言えるこのパターンですが、ご本人はシカゴソウルの影響を受けていると仰っております。パーカッションが6連符フレーズ叩くのを聴いて、改めてこのパターンのハネ具合を確認。(我々は「おばけのピアノ」のカバーでイタダキました。しかし、ハネ問題を曖昧にしたまま録音してしまった。嗚呼やり直したい。)
卒業写真 – 荒井由実
この朧げで繊細なシャッフルのリズムを「キャラメル・シャッフル」と名付けたい。そして、涙まみれでしょっぱすぎ!な塩分高めで食えないバラードのリズムを「キャラメル・シャッフル」に改変し微かな甘みを与えたい。そんな魔法が使えたら良いな!
Let Me In – Benny Sings
オランダのブルー・アイド・ソウル歌手ベニー・シングスによる名曲。ハネた16ビートはソウル風味のポップスの常套句でもある。パーカッションの「ポッコポッコ」というシャッフルのフレーズが効いている。ベニー・シングスのハンプティダンプティのような愛くるしい顔もポイント高し。
サックス奏者に熱っぽいソロを吹かせないで「シティ」を騙ることなかれ。メイヤー・ホーソーンより断然ベニー・シングス派!
Benny Sings – Let Me In (videoclip)
Sugah Daddy – D’Angelo & The Vanguard
ビル・ウィザーズのところで出てきたジェイムズ・ギャドソンがキックと手で膝を叩く音で参加しています。なんて贅沢な使い方なんだろう。
前作から引き続きキックより先に発音することを禁じられているかのようなタイミングでベースを弾くのはお馴染みピノ・パラディーノ。
ディアンジェロたちは単純な24分割とは別のディメンションにいますね。
D’Angelo and The Vanguard – Sugah Daddy
The Blacker The Berry – Kendrick Lamar
発表したそばから名盤の誉れ高きTo Pimp A Butterflyからの一曲。トラックのキックは若干ハネている、というより揺れている程度。しかしケンドリック・ラマーのラップが6連符という変わり種。でもこれガッチガチの24分割というよりは、16分割と24分割を並走させて行ったり来たりしている感じもあり。空間を伸縮させる感覚というかね。そういえばジミヘンのソロも結構16分割と24分割の間を行ったり来たりしてますね。
前作good kid, m.A.A.d city収録の“Swimming Pools (Drank)”ではセカンド・ヴァースで6連、エイサップ・ロッキーのLong. Live. ASAP収録の”1 Train”では2拍3連を披露している。
とても勉強になる読み物
オーサカ=モノレールの中田亮さんが書かれたSWINGについての考察が勉強になるので興味のある人は読んだら良いと思う。絶対に読んだほうが良い。読まないなんてありえない。信じられない。
「SWINGについて」(その1) – SPECIAL | オーサカ=モノレール
パーカッション奏者の浜口茂外也さんが語るグルーヴの話も勉強になるので興味のある人は読んだら良いと思う。絶対に読んだほうが良い。読まないなんてありえない。信じられない。
浜口茂外也さんインタビュー Vol.2 – Guitar Labo – ヤフオク
ドラマー、ドラムチューナー、エンジニアの三原重夫さんが語るドラマー向けのコラムも勉強になるので興味のある人は読んだら良いと思う。絶対に読んだほうが良い。読まないなんてありえない。信じられない。
三原重夫のビギナーズ・ドラム・レッスン > vol.8「難しいようで簡単な、でもやっぱり難しいリズムの構造」
3つ合わせて読むが吉。しかし音楽を聴取する感覚が変わってしまうのでコンサバな方にはオススメしない。なんてね、アハハハ。
アリヴェデルチ、エゴサーチ
近頃P-FUNK(特にファンカデリック)が好きになったので少しずつCDを集めている。それにしてもダブり買いしてしまいそうで怖い。America Eats Its Youngの1曲目があまりにもクールすぎるので失禁しながら書いてます。ゲイリー・シャイダーに倣ってオムツを履いているので特に問題ありません。ドラムは誰が叩いているんだろう。ファンカデリックのドラムは、歯ごたえ(耳ごたえ?)があって、聴いているとおせんべいを咀嚼してるみたいな気持ちになる。食べているときに口を開けちゃいけませんね。
先日、早稲田のサークル「ワセレコ」主催によるイベントの終了後、たくさんの学生さんたちに混じって打ち上げに参加するという機会があった。そこで、延々ビールを飲みながら、野島さんにイギリスのロックについて色々と教えてもらうという学生のときのようなことをして、自分の相変わらずっぷりに涙がちょちょぎれんばかりだったが、結果的に楽しかったから良い。最近は誰かと音楽の話をする機会もめっきり減りました。
翌日の東京工芸大学(ジョギング中に通過する。まあまあ近所)でのライブにビート研(今はビー研というらしい)に所属しているというお客さんが来ていて少し話した。卒業する頃はほぼ死に体だったが、今は持ち返しているとのこと。ライブ後、日が沈む前から飲んで相当良い感じに。
わざわざ人に言うほどのことでもないかもしれないが(誰からも読まれていないという話もあるが。自虐ではなく本当に。アナリティクス導入の意味はあるのか)、一月ばかし前に、長年親しんできたエゴサーチをやめた。今のところ禁断症状のようなものは出ていない。やめて生活が大きく変わったということもないのだが、ストレスの種を一つ減らすことには成功できたかと思う。やらずに済むのならやらないに越したことはない。このままツイッターを開店休業まで持っていけたら最高だ。
禁煙に成功した者が喫煙を続ける者を嘲けながら「あんなものは百害あって一利なし!今日も飯が旨いぞ!君もやめたらどうだねアハハ」などと言って得意になっている図をここで演じるつもりはない。ただ、一月以上経過した今、誰かに自慢したくてウズウズしているということだけは否定できないだろう。一月ぐらいじゃ何の自慢にもならないことも承知の上だ。そもそもこれは自慢になるようなことなのかという疑問もあるがそれはさておくとする。どうあれ、こんなものは甘えの裏返しでしかないから、いくら自慢したつもりになったって結局は如何に自分が良い年して甘えん坊であるかということの表明にしかならないのだが。
その行為は、良い気分を得るために他人を一回かますところにどこか危うさがあるように思えたし、また、スマホさえあれば、いつでもどこでも、それが公衆の面前だろうと、しかも無料で何度でもできてしまうことにもどうも色気がないように感じられた。
軽い出来心で始めたその行為はいつの間にか習慣と化し、スマホを持つと反射的に指が自然とそれを始めてしまうという状態になってしまい、いよいよ、これってまあまあ地獄だよなあ、そこまで大したことじゃなさそうなのがかえって質悪いよなあ、と感じるようになってきたから、エゴサーチとはアリヴェデルチすることにした。
中にはエゴサーチに対して、マーケティング的な観点での意義を見出す人もいるだろう。そういった方にはその方向で進めていただけますと幸いでございます。引き続きよろしくお願いいたします。
エゴサーチに淫してばかりいると自分で自分を対象化して検証する能力が退化していくのではという懸念もあった。2015年にそんなものは必要とされていないのかもしれないが。
忘れられがちなことではあるが、我々の活動の多くは、単に人前に立つことではなく、基本的には人前に立って音楽を演奏することなわけで、それがなぜかと申せば我々が楽器演奏者であるからだ(その証拠にステージに立つ時は必ず楽器を携えている)。そして、楽器演奏者が自分で自分を検証する能力を放棄してしまったら、これは結構まずいことなのではないか。
まずい演奏というのはベチョベチョのチャーハンみたいなところがある。音符を水分に、休符を空気に見立てるとわかりやすいが、この両者のバランスがグルーヴおよびチャーハンの美味い不味いを分かつ大事な要素のひとつとなっていると言えるだろう。心地よい状態にグルーヴした演奏というものは、パラパラのチャーハンのように、水分=音符、空気=休符のバランスが良い塩梅に調整されている。おそらくこのバランスには黄金律のようなものがあるのだろうが、自ら楽器を演奏する限りにおいては、自転車の乗り方を覚えるようにして体得していく以外に手立てがないように思う。
ファッション誌を読んでいるとストリートスナップのページで「サイジング」について褒められている人が散見できるが、そういう「サイジング」みたいな微妙なところを姿見を見て調整していく感覚が、演奏する場合においても必要なのではなかろうか。だから、と続けるには些か飛躍があるが、エゴサーチの結果を鏡だと思い込むのはどうなの?ということにもなってくる。誰も「16分の裏が甘いのが気になって踊れなかった」みたいなことはつぶやかないし。誰も見てないから良いやと思って綻びを放っておけば必ずその綻びはジワジワと大きくなり、妥協する気持ち、自らを欺く気持ちも強くなっていくことだろう。
だいたい、楽器を使って何か音を出せばそれはもう音楽である、ということは自明だと言って差し支えないだろうが、本当にそうなの?という疑問も当然あるわけで、それってもはや楽器がアリバイのための道具でしかなくない?などと思うのだが、昔から「音で楽をすると書いて音楽」なんてことを言うし、元々がそういうものなのかもしれない。そして、そういったことはおそらく売れるとか人気が出るということとあまり関係がないことなので、ずっと軽んじられてきたのだろう。それでこの有様である。などと言うほどウブではない。
ところで先ほど「グルーヴ」という単語を持ちだしたのでついでに言っておくと、「グルーヴ」というものはどう考えたって舶来品で、「スタバにマックブック」というウンザリするようなクリシェに隣接した案件といって過言ではないだろう。だから結構「サードウェーブ系男子」(一瞬で死語に)などという揶揄を喜んでいる連中(=洋画を観ていて皆と違うタイミングで笑う日本人を許せないタイプの連中)から顰蹙を買いがちでもある。舶来品やハイカラなこと・ものに対してアレルギーがありながら、横文字で表記される「ロック」といった音楽のスタイル乃至カルチャーに接することは難儀なことであろう。そんな元マイルドサブカルの心情的居直り反動保守なんて無視無視(「文化的」な恨みは食べ物の恨みと同じぐらい怖い。喧嘩は品性を捨てた者が勝つ)なんて言って知らぬ存ぜぬで押し通しておけばきっと問題ないのだが、ここはひとまず「心中お察し申し上げます」と言ってお茶を濁しておこう。
思いっきり前言を撤回する形となってしまうが、正直なところ、世の中にはガッチガチのエゴサーチ魔で且つ演奏がめちゃくちゃ上手いという人も一億人ぐらいいるだろうから、この二つに大した相関関係はないだろう。ただ、オールドスクールの音楽家のダンディズムであったりクールな態度に憧れる身として、ベチョベチョのチャーハンの中でウェッティーにワイワイやるのはちょっとイヤだなぁ、わからないなぁ(裏糸井重里)、というただそれだけの話。楽しかった中学高校をいつまでも引き伸ばしたいのはわからんでもないが、良い歳して思春期の男同士の浮ついた触れ合いみたいなものを続けるわけにはいかんでしょう。
世に恐ろしいものはベチョベチョになったエゴが寄り集まって巨大なベチョベチョのチャーハンを形成して、しかも誰もそのことに気づかずにいるという状態だ。口の悪い毒舌家風の者などを調味料として適宜配置し味付けを濃くしてごまかすなんてことを始めた日には、もう本当に目が当てられない。毒舌家風の質の悪さは、アグレッシヴに見えてその実、他人に辛さを受け入れさせる乃至許してもらうという受動的な形でしか存在していないから精神の根っこは相当甘々で、辛いから油断してたけどめちゃくちゃ糖質高い!やばい!というところにある。
チャーハンも演奏も集団でさえもパラパラになっている状態が一番望ましいように思う。28年間生きて未だにベチョベチョ状態か中華鍋から飛ばされて孤立という状態のどちらかにしか立ったことがない人間が偉そうに語ることではないのだろうが。
ところで、巷間において、エゴサーチという言葉は、自分の名前や自分が関連しているもの以外の、例えば、自分が愛情を注いでいるものを検索する場合などでも使われているようだ。だから言いようによっては「日本」で検索することもエゴサーチの範疇だと言えるだろう。前に一度、シャレで「日本」でツイート検索をしてみたことがあったが、憂いている人が多く、良いようには書かれていなかった。
自分が愛情を持って接しているものも、相当ベチョベチョ化が進んでいるものの、エゴといえばエゴではある。しかし、それらをひっくるめてエゴサーチと呼んでしまってはなんだかややこしいし、むずがゆさもある。そこで提案したいのは、本来的な意味でのエゴサーチを「愛サーチ」と、愛着を持った対象をネットで検索することを「友サーチ」と呼ぶことだ。そして、自分の名前と好きなものの間にスペースを空けて検索することを、「友&愛サーチ」と呼ぶことにしたらどうだろう。我ながら最低の思いつきで、天晴れ!という他ない。
「愛サーチ」は英語の一人称である”I”と自己愛の愛がかかっており、「友サーチ」は同じく英語の二人称の”you”と友愛の友がかかっているわけである。ところで友愛って何なんだろう。
そういえば、近所に「友&愛」というゲーム屋さんがあったけど、何年か前に潰れてしまった。














