徒然ビューティー備忘録

忘年会、正月の帰省、新年会などを経て、暴飲暴食スイッチが入り、その流れで、1月中はついつい高カロリーのものが食べたくなってしまい、また週末になればお酒が飲みたくなり、欲望に素直な気持ちで従った結果お腹が出てくるというのがここ何年かのパターン。今年も例年通り、いよいよ腰回りがきつくなってきた。昨年は下半期になって何故かジョギングに目覚め、ついでに食事制限も始めたので、かなり脂肪は落とせたのだけれど、結局元に戻ってしまいそう。
今までお店で一人飲みということをあまりしたことがなかった。なぜなら店員さんを一度の発声で呼べる自信がないから。「すいませーん。すいませーん。すいませーん。すいませーん。」という連呼が、店員さんには気付かれず、周りのお客さんにだけ聞こえているという状態はなかなかに惨めだ。駅前にある日高屋系列の立ち飲み屋は一人の客が多く、店も広くないので店員さんが捕まる確率が高く、最近よく入ってしまう。料理の質をつべこべ言うのは野暮というもの。
それと、関係ないけど、回転寿司でレーンに回っていないものを注文するのも苦手。まず忙しそうな職人さんに対して気持ちで負けてしまう。周りの人は「えんがわ。あと、うに」みたいな感じでスムーズに注文しているけれど、自分の場合は「私の声が聞こえていますか?」という意味合いで、最初に「すいません!」と尋ねてからでないと注文できない。もはや回転寿司で注文することが普通のことであるのならば、わざわざ寿司を回転させることに必然性はあるのかという疑問もあるが、どうなんだろう。
日曜日、ブルーノート東京へジェームス・チャンス&コントーションズのライブを観に行った。ブルーノート東京へ行くのは初めて。すこしドキドキした。
まずジェームス・チャンスのヒップネスを讃えなくてはならない。やはりヒップネスというものは生半可なものでないと確信する。
ライブはジェームス・チャンスのソロピアノで幕開け。その後、バンドの演奏を従え、スタンダードナンバー「酒とバラの日々」で歌声披露。洒落なのか本気なのかわからない、なんていう一言が口を衝いて出ようものなら自らの頬に張り手を喰らわし目を覚まさなくていけない。ジェームス・チャンス本人は洒落とか本気といった尺度で物事に取り組んではおらず、当然のごとくそれを行っているという様子であった。そこには我々に対する一切の目配せもウィンクもない。おもねりとおひねりの微笑み合いが通用しないステージに思わず放心。
JBのカバーである”Super Bad”はストレートに取り組まれたものだったが、やはり出来上がりは異質で、我々が普段グルーヴと呼んでいるものと一緒くたにしようというのはどだい無理な話。官能と劣情の速さの違いか。「めっちゃ踊ったあ」などのノホホンとした感想で済まされるものではなかった。でもジェームス・チャンスのダンスはとても可愛らしいダンスだった。
すっかりヒップネスにあてられて、私事で恐縮ですが、自分の行い全般がとても恥ずかしくなってしまいました。この期に及んでコントーションズの影響が云々というような話はもはや茶番でしかないと思う。
ただの固有名詞へと押し遣ってなんとか安心せんとする我々の企てを潰すためにジェームス・チャンスは遠路はるばる日本へやってきたのではないかとさえ思う。
音楽を聴いて何か納得できるようなことなど一つでもあってたまるものかよ、と今敢えて言わなくてはいけない気がする。音楽をそのへんの手頃な日本語でもってブロック状に固めテトリスよろしくちょろちょろっと配置していくことは、収まりが良いというだけで、何かものがわかるというようなこととは全く別のことだし、だいたいそんなのはちっとも音楽的な行為とは言えない。しきりに反省するばかり。
聴いたことがないジェーム・チャンスの音源を求めてユニオン(本館)に行ったところ、ZEレコードの紙ジャケシリーズが何点かあり、まあまあ安かったので、The Flaming Demonicsと併せてCasino MusicのJungle Love 、WaitressesのWasn’t Tomorrow Wonderful?を購入。ついでにBlondieのベストも。中古センターほうにも行ったら49 Americansの二枚目がありなんとなく購入してみる。自分のツボを抑えたなかなか手堅い買い物。果たして本当にこれで良いのか。未だ全然消化できていない70年代アメリカンロックづいていた年末の買い物が奥のほうに追いやられてしまった感もあり。
gleeでも取り上げられたWaitressesの”I Know What Boys Like”のポップさは奇跡としか言いようがない。シンプルさとギミックの妙味。どうしたらこういう曲ができるのか謎。
Waitressesのドラムはテレヴィジョンのビリー・フィッカ(”I Know What Boys Like”で叩いてるのは別の人らしいが)で、見た目と凉しそうにドラムを叩く姿がなんとなくが林立夫似。
翌日、馬場のユニオンに行ってみると、Eggの一枚目から三枚目があり迷う。しかし思い切って大人買い。帰って聴いてみると良い感じだった。特に三枚目。管楽器が入っていて、ZNRとかThe Muffinsとかの雰囲気に近い。一枚目にはジョン・セバスチャン調の曲があり心安らぐ場面も。そういえば一枚目はなぜかタイラー・ザ・クリエイターがフェイバリットに挙げていた。去年ピッキオ・ダル・ポッツォの一枚目を入手して全然聴いていないことを思い出した。

 

MASAのハピネス便り

寒い。冬だからそれはあたりまえのこと。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」というけれど、春分までまだ二ヶ月も残されている。地元の小学生がベンチコートを普段使いしていたことを思い出して羨ましくなる。
今が冬であるという理由だけで軽軽しく「寒い」と口にしがちだが、コンビニや飲食店、電車などは暖房が効きすぎているのでむしろ暑い。夏は夏でどこも冷房が効きすぎているので寒い。本邦において外国人の薄着がよく揶揄の対象となっているが、極端なエア・コンディショニングにこだわる我々が果たして彼らを笑うことができるのか。
ロケットの打ち上げとでも言わんばかりの、季節に真っ向から逆らう温度設定は「わかりやすさの追求」というこの時流を反映したものであると考えられる。暑いとか寒いといった皮膚に対する過剰な刺激が感じられない場合、エアコンは動作していないものと同様であると見なされてしまう。暖かいとか涼しいと形容できる快適な温度では満足できず、せっかく電力を使用してエアコンをつけているのに寒くも暑くもないだなんて電力の無駄遣いではないかとついつい感じてしまう。いわゆる「温圧戦争」と呼ばれるものはこのような感覚に起因する。
我々の感覚がここまできてしまった以上、この土地にはもはや暑いところと寒いところしか残されていない。人々は「調度良い」という概念を忘れてしまったのだ。中庸というものがプラスでない限りにおいてゼロではなくむしろマイナスであると勘定されてしまう昨今において春と秋だけが空調のオアシスと言えよう。冬来たりなば春遠からじ。
昔から「その人の温度設定を見れば楽器の上手い下手がわかる」というがたしかにその通りで、夏場に冷房の設定を18度にする者などは、楽器をやらせるとやたら音がでかくてそのうえ抜けが悪く、聴いていて耳が痛くなるだけの演奏をする者が多い。
忘年会や新年会など、冬に行われる飲み会で、一番楽しい気持ちになる瞬間は決まってお開きになってお店の外に出されたときだ。冬場特有の室内の淀んだ空気から解放されて、冷たい外気に触れるとアルコールで弛緩しきった頭が冴え出すし、外の空気は室内よりも酸素の濃度が濃いから脳が活性化し、かなり良い気分を得ることができる。そこで解散ということになれば気分の高揚のやり場に困ってしまうから、二軒目行きましょう!ということになるのだが、改めて店に入るとやはり落ち着いてしまい、ぼーっとしがちである。そして、それでも尚快楽を求めんとする心からなんとか用を作って外に出たくなってしまう。居酒屋を抜けだして一人でコンビニに向かうときの高揚感もまた冬場の飲み会の醍醐味のひとつである。
今はただ、バラエティ番組の影響下にない飲み会が増えることを願うばかり。また、会ったときに時事ネタについて話さないで済む間柄がいかに貴重なのか最近わかってきた。
某日、シネ・リーブル池袋で「ストレイト・アウタ・コンプトン」鑑賞。イージー・E役の俳優がダウンタウンの浜ちゃんに似ていて、意識のどこかで「これは浜ちゃんにまつわる話である」と思って観てしまい、なぜか浜ちゃんへの愛が心の深いところで芽生えるという現象が起こる。しかし、浜ちゃんと「ストレイト・アウタ・コンプトン」は関係がないのだから、こんなことを言っていても何の意味もないのだが、少なくともこれはジェイソン・ミッチェルが演じたイージー・Eの人好きする人物造形があったからこそ抱いてしまう感情であるとは言えよう。小柄で声が高く、いつも笑みを浮かべ、周りにからかわれたときにははにかんで見せ、ストリート仕込みの賢さもあるが義理堅く、そして良く泣く。我々が愛すべき人物。
イージー・E、ドクター・ドレー、アイス・キューブの登場シーンからグループ成功あたりまでは思わずyeah!と快哉を叫ばずにはいられない展開の連続。特にドレーの登場シーン。ファンクのレコードの山の上にドレーが寝そべって、ヘッドフォンでロイ・エアーズを聴いてうっとりしているところを天井から撮影したシーンにこちらまでうっとり。これはスコセッシ的なものに滅法弱いということの証明でもあるが…
実話ものだから仕方がないことかもしれないが、後半はサービスのためだけのシーンが多くやや冗長に感じられてしまった。また気合の入ったポール・ジアマッティに胃もたれも。
これは映画とは直接関係のないことだが、映画を観る限りN.W.A.もやはり金銭がらみでもめており、なんだかモヤモヤしたので、念のため音楽ビジネスの本を何冊かamazonで注文してみた。その辺のことについてあまりにも知識がなさすぎるし。また、早急に弁護士との知己も得ないければいけない気がしている。しかし、うーん、これがなかなかに、ベターコールソウル。
時事ネタ的にも日本にシュグナイト的な人物が存在することが可能かどうか考えざるを得ない。ついでに今ものすごく「謝らないハリウッド(スキャンダルから見たアメリカ芸能史)」というタイトルの新書を書いて一山当てたいと思っている。まあ、いかにもなタイトルというだけでヒットするようなものでもないだろう。何が一山当てたいだ。ぬるい。あまりにもぬるい言説。自分の無力さに腹が立つ。
ところで、アイス・キューブの誕生日がいつだか知っていますか!1969年の6月15日。そしてなんと6月16日は2パックの誕生日!1971年生まれ。ちなみに私も6月16日が誕生日。さらにさらに6月17日はケンドリック・ラマーの誕生日!私と同じ1987年生まれ。驚愕のスリーデイズ。まさに双子座グラフィティ。
生きているとどうしても腐ってしまうことがあるが、同じ歳のケンドリック・ラマーが奮闘している限り、前向きな気持ちで物事に取り組まなくてはと思う。しかし…おい、オーシャン!2016年になっちまったぞ!ちなみにフランク・オーシャンも1987年生まれ。気合入れるのはフランク・オーシャンがアルバム出してからでいいやという気持ちもなきにしもあらず。
そういえば去年買ったドレーのアルバムは全然聴いていない。
月曜日は新代田FEVERにてDucktailsとスカートと対バン。Ducktailsの軽くて芯のあるドラムが心地良かった。ドラムというのは自分が思っている以上に軽く叩いても良い楽器であるような気がした。ドラムなんて叩く機会はないのだが。来月は同じく新代田FEVERでトクマルさん、Hei Tanakaさんと対バン。

「トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会」のお知らせ

この度、御茶ノ水のCafe 104.5にて「選曲家」としてイベントを開催するはこびとなりました。日取りは2月16日火曜日でございます。19時30分から二時間選曲いたします。
Cafe 104.5はブルーノートジャパンがプロデュースするカフェでございまして、美味しい料理とお酒が楽しめることは請け合い、不肖鳥居も舌と胃袋に響くような音楽をご用意してお待ち申し上げております。アドミッション・フリーいわゆる入場無料ですのでどうぞお気軽に。
お仕事帰りに、またはデートに。女子会、男子会、男女会、おひとりさま、おふたりさま、なんでもござれ、でございます。良い音響で音楽を聴きたいという方にもオススメです。最近良いスピーカーで音楽を聴いていますか?DJ中は案外手持ち無沙汰なので人間Shazamとしての対応も可です。
ついては皆様お誘い合わせのうえ、奮ってご参加いただけますように何卒よろしくお願い申し上げます。ぜひおこしくださいね。
以下、詳細ページです。
http://www.cafe1045.com/music/_2016_216_tue.php

次回のトリプルファイヤーライブは…

3776さんとMaison book girlさんと共演です。以下、詳細です。
2月11日(木・祝)下北沢SHELTER
SHELTER presents 3×40
開場 17:30 / 開演 18:30
前売 ¥2500 / 当日¥3000
出演 3776 / Maison book girl / トリプルファイヤー
チケット e+
ついては皆様お誘い合わせのうえ、奮ってご参加いただけますように何卒よろしくお願い申し上げます。ぜひおこしくださいね。

 

What a lovely diary!

週末は札幌へ。なぜこのタイミングで札幌へ行ったのか説明すると、その目的は至ってシンプルで、ライブをするためだ。移動手段は飛行機!
会場はすすきののCOLONYというライブハウス。ここのJCの音がとても素晴らしかった。素敵なJCとの出会いはギタリストにとって何よりの喜びである。
これは完全なる思い込みに過ぎないが、新宿、特に歌舞伎町にあるライブハウスのJCの音は他の場所にも増して固い傾向にあるように思う。音に焦げ臭いようなところがある。
オーディオマニアの間では電力の使用量が減る深夜のほうがオーディオの音が良いというのが定説らしいが、そうであれば歌舞伎町の近辺で営業するライブハウスのJCの音が良いはずがない。しかし実際のところはそれほど単純なものではなく、個体差であったり経年変化であったり様々な要因があるはずだが、そのように込み入った話題は専門家にお任せしたい。
アンプといえば神保町の試聴室にあったYAMAHAのJ-35がいかにも年代物といった見た目とは裏腹に素直な音がして良かった。このアンプを安く入手すべき、という気がする。
昨年、急にフェンダーの真空管アンプが欲しくなり、銀パネのChampという小ぶりのアンプを6万円で購入した。とても後悔している。全然使用していないことが原因だとは思うが。
ただの板にパーツを必要な分だけ取り付けただけのひたすら軽いギターはないものかと探している際に、マーク・リボーが使っているのを見て欲しくなったメロディーメーカーというギブソン製のギターを買うときも「何がなんでも欲しいというわけでもないんだけれど」という気持ちが5割ぐらいあったし、買ってからも「何がなんでも欲しかったというわけでもないんだけれど」という気持ちが5割ぐらいあった。そのあたり見抜いていたのか、買う前に「本当に欲しいの?」と聞いてきたのは吉田くんであった。それはさておき、購入しても片手で万歳ぐらいの中途半端な気持ちだったものの、使っていくうちに後悔の気持ちも薄れていった。後悔という感情は案外揮発性が高いものかもしれない。
今買わなくちゃいけないような気がするダンエレクトロの12弦ギターを実際に買って後悔したとしても使っていくうちに忘れてしまうだろう。だから問題は買った後に押し寄せる後悔の念に耐えられるかどうかということになってくる。
消費活動に関わる後悔から逃げる唯一の方法は、目の前の物欲から目を離さずにペダルを漕ぎ続けることだ。振り返れば死屍累々。真っ直ぐ前だけ見て買って買って死ぬまで逃げ続けるしない。物欲に対して検証を始めると、ドミノ倒しでただただ暗い気持ちになるだけなのであまり考えないのが吉。しかし、いらないものに対してはいらないと言わなければいけない時期が来ていると思う。そんなことを声高に言ったところで自分の首を絞めることにしかならないのだが。それでもやはり12弦ギターの音色を使った音楽を作らなくてはいけない気がしている。それも今すぐに。
ダンエレクトロの12弦ギターを買うか買わざるかという問題はとりあえず棚上げして、代わりに年末に買ったバーズのアルバムを聴いている。Fifth Dimension収録の“What’s Happening?!?!”という曲がお気に入り。中途半端といえば中途半端だが、そこがまた愛らしくもある。というかこういう地味だがキラリと光る小品が好きでたまらない。”What’s Happening?!?!”はデヴィッド・クロスビーの曲とのこと。60年代後半の西海岸のロックはあのモヤッとしたややマイルドな音の質感が苦手で今まであまり聴いてこなかったがこの辺りをもう少しちゃんと聴いていきたい。
バーズがらみでいうとヴェルヴェット・クラッシュもカバーしたDillard & Clarkの“Why Not Your Baby”はいつ聴いても何度聴いてもやはり名曲。弦のアレンジはニック・デカロではないかと予想しているのだが、どうなんだろう。A&Mだし。ネットではヴァンダイクパークス説も囁かれている。でもヴァンダイクパークスではないと思う。
ジーン・クラークのWhite Light冒頭の“The Virgin”も素敵。流れでトム・ウェイツの“Hang Down Your Head”が聴きたくなる。やはりマーク・リボーのギターが聴き物。20代前半はこういうギターを弾く予定だった。いやまだ諦めてはいない。今でもエレキギターを用いた表現とはこのように行われなければいけないとさえ思っている。ここまできたらアレックス・チルトンのギターも聴かねばなるまい。エレキギターかくあるべし、というひとつの極点。どう考えたって。
戻り日は(北海道の話です)自由時間があったので、スピルバーグの新作「ブリッジ・オブ・スパイ」を観に行くことにした。目当ての映画館が札幌駅のすぐ近くにあるものだと予想していたら駅から少し離れた場所のショッピングモールの中にあることが判明し、バスに乗って移動。始めの15分ぐらい見逃してしまい、前方右側の席だったからスクリーンが平行四辺形で、更に寝不足のため途中で寝てしまったが、終盤から号泣。「ザ・マスター」でのフィリップ・シーモア・ホフマンの息子役が個人的にツボだったジェシー・プレモンス(橋本治似)の姿を確認。彼はCowboy and Indianというバンドでボーカルとギターを務めているそうだ。Cowboy and Indian (Featuring Jesse Plemons) “Trouble” at The Texas State Capitol 意外や意外、真っ当なアメリカーナ!
やはり北海道へのエフェクター類を持っていかなかった。スティーヴ・クロッパーやボビー・ウーマックを捕まえてわざわざ「アン直ですね」という人はいないだろうから、アン直を指摘されているようではまだまだ三流なのだろう、と最近よく思う。
ところで…(By The Way…)
いくつ?どこ住み?告っても良い?次回のライブ。

1月18日(月)新代田 FEVER
「ダムダム新年会!DUM-DUM NEW YEAR PARTY」
開場 18:30 / 開演 19:00
前売 ¥3500 / 当日 ¥4000(+D)
出演 DUCKTAILS / スカート / トリプルファイヤー
http://dum-dum.tv/
ローソンチケット(Lコード:79304)/ e+

今月はあとこれだけ。どうぞよしなに。ポジティ部!もちろん良い意味で。

 

スーパー楽しい日記!

みんな!明けましておめでとう。今年も「Notoriious B.l.G.」をよろしく。
大晦日はユニオンのセールで散財。最近は70年代のロックへの欲求が高まっているのでその辺をメインに物色。一口に70年代のロックといっても様々だが、産地でいえばメンフィス、ナッシュビル、マッスルショールズ、ウッドストックあたり。実際に買ったのウエストコーストのバンドが一番多いと思われる。加えてそのようなアメリカ音楽に影響を受けた同時代のイギリスのバンドも。
久々に東京で年を越して、元日の夜に新幹線に乗り帰省。22時30分頃地元に到着。駅前でおともだちにピックアップしてもらいそのままモンテローザ系列の居酒屋で飲んだ。(便所に行ったら「親父の小言」が貼られていた!最低!読んでみると良いことがたくさん書いてあった!しかし最低なものは最低!)今年はいつもの面子に加えて成人式以来会っていなかった友人がいたので旧交を温めた。
初夢はきゃりーぱみゅぱみゅのスタッフになるという内容だった。夢の中のきゃりーぱみゅぱみゅはNHK好きのする素朴な愛くるしさがあり、仕草の一つ一つがとてもキュートで、彼女が視界に収まっているだけで幸せな気持ちが充満する空気の層に包まれて体が宙に浮くような心地だった。こんな幸福な日々がこれからしばらくの間続くのかと思うと期待で胸がはちきれんばかりだったが、目が覚めてそれが夢であることを知ると、心から惨めな気持ちになってしまった。結局夜になってもその悲惨な気持ちを拭うことができなかった。こんな初夢を見るぐらいならばいっそ悪夢にうなされるほうがいくらかましだろう。なぜなら目覚めたときに安心できるから。
昔、夢日記をつけてみようと思い立ち、ついでに河合隼雄が明恵上人について書いた本を読んでみたところ、明恵上人の見る夢は志しの高さを表したようなものばかりで、身近な人物に叱られる夢ばかり見る自分が情けなくなったから夢日記をつけるのは止すことにした。このご時世を反映したようなあまりにも酷い初夢にそんなことを思い出してしまった。
そんなこんなで三が日(ところで、三ヶ日みかんは美味しい)が過ぎ、新幹線で帰京。Uターンラッシュの混雑を避けるために名古屋駅付近の映画館で「スペクター」を観て時間を潰したものの結局座れず立ちっぱなし。タブレットで「シンドラーのリスト」を観て過ごした。品川に着いて席が空いたので腰を下ろしたところ、黒い革のロングコートを着た男性が隣に座ったでほんの少しだけ驚いた。
年が明けた今「飽き」の大波が大挙しており、全てのことがつまらなく感じられて、何事にも今ひとつ身が入らず、下手に何かしたところで虚しさは募る一方。言うなれば「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の4番状態。こういう状況は一年に一回くらいのペースで必ずやってくる。だからそれなりに対処の仕方も心得ている。そんなときはJBの音楽を聴くに限る。ファンクやヒップホップのリズムに対して体が心地良いと反応するようであれば当面は大丈夫!すべてが!(ガンダムに殴られているような音楽はもう・・・・・・)
ついでに言っておきたいのは「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の3番の歌詞を全面的に支持するということ。ネットにありがちなエモボーイのぬるいニヒリズムなんぞは害悪以外の何ものでもない。田舎の中学生じゃあるまいし。ずっと横になったまま溜飲を下げて下げて下げ続けるのか、今際の際まで、スマホ片手に。人を呪わば穴二つ。そういう気持ちちゃんと持ってますか。
ものごとの全ては結局「やるか・やらないか」の二進法でしかなく、やる気の有無なんぞはお子ちゃまの戯言に過ぎず本来すこぶるどうでも良いことだ。しかし我々は経験から学んでいる。前向きな気持ちで何もしないことが一番経済的だということを・・・
なんてね!さあ、2016年も張り切っていきましょー!がんばるぞー!ウキー!!ポジティ部!

 

2015年ベストアルバム

今年購入したアルバムのうちいわゆる新譜というものの枚数を数えたら13枚しかなかったので、これを羅列したらそのまま年間ベストが出来上がってしまうという体たらくで何とも情けない。とは言ったものの微塵も情けないなどと感じていないのが正直なところで、そもそもの話、2015年という年にあまり興味がないし、年末のせいか今は2015年という年がトレンドみたいだけど、年が明けたらすぐに2016年が流行り出すに決まっているし、2016年なんてさらにどうでも良いし、もっと言えばこんな頓知が利いている風でその実何の意味もないことを書いていても何の意味もないし、こういうのをトートロジーと言って、日本語で言えば同語反復っていうんですか、とまあそんなことはどうでも良いけど、このトートロジーという単語を教えてくれたのは大学時代のサークルの先輩で、ここでこの人の逸話を紹介したいと思います。
その先輩は入学してからの4年間、どこのサークルにも属することなく過ごし、留年が決まった年に開き直ってサークルに入ることを決意し、予てから目をつけていた趣味の合いそうな音楽サークルの部室の前まで来て逡巡を振り切るとドアをノックしたそうな。部室にいた者に自己紹介やら身の上話やらしていく中で「今まで一人で何してたんですか?」と聞かれたので、先輩は「歌は孤独なもんだと思ってました」と返答したとのこと。
この言葉を聞いてから、折に触れて「ああ、歌は孤独なものだよなあ」としみじみ感じることがある。「無人島レコード」という定番の企画に対して、持っていくも何もここが無人島だよ、寄る辺なんかあるものかよ、と思うこともある。
「歌は孤独なもの」というのは「歌は個人のもの」と言い換えることができるかもしれない。今ここで、余計なものなどないよね、と同意を求められたらNOと言わざるを得ない。いくらSAY YES〜♩と言われようと。チャゲ、アスカ問わず。世の中には個人とは何ら関係のない余計なこと・ものが溢れている。例えば他所の年間ベスト。そんなものは我々の営為とは何ら関係がないと端からわかりきっていることなので放っておけば良い。しかし目の前にあるとついつい手にとって覗いてしまうのは悲しき性か心の弱さか。馬鹿なのでやはり見てしまう。SNSで回ってくるような共感とブーイングの二枚刃構成でどっちに転んでも結果ビュー数は稼げるというのがコンセプトのとても品のないマイルド文化人が時事ネタで放談したような安手の記事を視界に入れないようにする能力は今年かなりついた。buzzって虫の翅が発する音のことだそうですよ。一体どの虫なんだ!
だからもうはなっから埒外だって思っていたほうが良い。自分が参加していない飲み会で自分の話題が出たかどうか気にするようなもので、それはとってもみっともないことです。自分さえちゃんとしていれば良いじゃないですか。
ところで今話題のスターウォーズを観に行った。ここ一月ぐらい宣伝がものすごいことになっていたので、スニッカーズに衣をつけて油で揚げたお菓子を1日に4、5本ほど無理やり食わされているような気持ちになっており、その結果食傷気味になり、儲けなくてはならないにしろいくらなんでも品位を落としすぎではなかろうかと感じていた。水道水に広告が入る日も近い、なんて思ったものだが、しかしよくよく考えてみたら宣伝というものはそもそもくどいものなのかもしれない。景気の良い頃に思わず「いいよなぁ」とつぶやしてしまうような気の利いた広告がウケていただけであって。
例えばビラ配りのバイトをしている際に、通行人の迷惑にならないように慎ましく配ろうとしても監督役の者からもっと積極的に配りなさいと注意を受けること必至だ。たまたま自分がSWという花粉に対してアレルギーを持っていたために妙に意識してしまっただけで宣伝はいたるところにあるものなのだろう。ヨーダが言うところのForceのように。明日試しに視界に宣伝が入る度に指差し確認して我々がどれだけ宣伝に囲まれて生きているのか実感してみたいと思う。しないけど。
それで劇場に行ってスクリーンに例の黄色いロゴが出て瞬間、あ!関係ない!と思いましたね。宣伝とSWは何の関係もないと。深酒した翌日、夕方頃に二日酔いの症状がフェードアウトして丹田が温かくなり、その熱が体中に巡っていくときのあの快感のようなものが感じられたし、分厚い雲が割れてそこから光が差して地上を照らすといった図が脳裏に浮かぶほどの感動もあった。だから結局体験っていうのは個人のものでしかないということなのだろう。そして宣伝は個人のものにはならないという話。現象なんてもうどうでも良い。本当に、心から。だから、今むしろ「関係がない」ということはとても良いことだと思う。「関係がない」という関係のあり方。「放っておく・放っておかれる」と言い換えても良いかもしれない。「いっちょかみ」という関西方面の言葉があるけど、これがなかなかに地獄だ。
ええ、なんて無茶なことを言っておりますが、というさりげない逃げ口上を挟みつつ、少し話題を変えよう。「最近何聞いてんの?」っていう質問って良いと思いませんか。かしこまって「どんな音楽が好きなんですか?」と聞かれるとこっちもかしこまってうまく答えられないし、そこで「ひとつ選ぶの難しくないですか?」なんてことをいうと「たくさん聴いてる」という自惚れっぽく受け取られるのが常だし、まあ、相対的には聴いてるほうだけど、相対的には全然聴けてないもんね。CDの山見てしみじみとこれものにできてんのか?ええ?って思う夜もある。「ひとつ選ぶの難しくないですか?」というのが自惚れに聞こえる人はそのへんのことがよくわからないのだろうね。
だから年間ベストとかより「最近何聴いてんの?」のが全然良い。無人島からイカダ出して近所の島に出かけてくみたいで素敵じゃないか。今年はたぶんトータルで5回ぐらいしか聞かれてないけど。それが多いのか少ないのかはわからない。年々減っていることだけは確実。自分もあまり人に聞かないし。地殻変動が起こっちゃってる。そんな世間話を交わした人たちも今や散り散り。パンゲアの頃が懐かしいな!

 

マヌカンハウス刊『リュダクリス』No.812 特集「やっぱり遅刻。」

「餅は餅屋」なんてことを言いますが、遅刻についてもやっぱり専門家に聞くのが一番!というわけで気鋭の遅刻家、今沖田寝坊(いまおきた・しんぼう)さんに詳しく語っていただきました。
遅刻の反対語って聞いたことがありますか?「早刻」といったところでしょうか。そんな言葉はありませんが、世の中には予定の時間よりも大幅に早く所定の場所へ着いてしまう人が少なからずいます。例えば試験会場などに一番乗りして最前席をキープするような人です。何となく要領が悪くて融通が利かないような印象を人から抱かれがちなタイプです。几帳面そうに見えるいっぽうで寝癖を気にしていなかったりと、どこか鈍感な面も見受けられる。学生の頃、授業中に頓珍漢な質問を繰り返しては教室を微妙な空気にさせたクチかもしれません。
こうした「早刻」にまつわるステレオタイプをものすごく単純に裏返してみます。すると「遅刻家は要領が良くて融通無碍である」ということになります。いわゆる「ハイスクールの人気者」タイプですね。教室に一番最後に現れて、一番後ろの席に座るようなタイプの人物です。そしてここぞというときにだけ能力を発揮して結果を残すような人物でもあります。
当然、現実はそれほどシンプルではありませんが、多くの人と同様に遅刻家もこのような融通無碍で天衣無縫な人物像をセルフ・イメージとして抱きがちです。
また、現代を生きる者にとってテレビに出ているお笑いタレントのようにおもしろい人間であろうと努めることは人生の優先事項となっていますが、遅刻家の場合、生活態度を改めて一切の遅刻を止めた途端ユーモアセンスを失ないつまらない人間になってしまうのでは、と不安に思う人が少なくないようです。世事に囚われない越境的な身振りと、杓子定規から程遠い大らかな性格が独自のユーモアセンスを形成していると考えているのです。「時間通りに行動する?お役所じゃねぇんだから!」といった具合に…
遅刻家にとって遅刻はもはやアイデンティティの一部となってしまっているので、いまさら引くに引けないという状況に嵌りがちです。漫画を読んでいると頬や目の周りなど顔の一部に傷跡が残るキャラクターが出てくることがありますよね。遅刻はああいった傷のようなもので、それが瑕疵であろうと当人のキャラクターを示す愛すべきトレードマークと認識されています。他人からすれば「ホクロ毛」のようなものかもしれないにも関わらず。遅刻家はステッカーを見ると思わず貼ってしまうタイプといえるかもしれません。近代以降を生きる自意識が肥大化しすぎた我々には特性になり得るものなら何でもペタペタと貼ってしまうという悲しい性があるのです。
人間が社会に参加して生きていこうとすると磁石のように二つ極が発生すると私は考えています。二つの極はそれぞれ「他人から受け入れられたい」という極と「他人を受け入れたくない」という極です。
まず「他人から受け入れられたい」という極についてですが、この態度が世に擦れて屈折したりすると他人にとって迷惑な行為となって現れる場合があります。例えば、くしゃみや咳をするときに口を覆わなかったり、人前でゲップしたり、密室で放屁したり、クチャクチャと咀嚼の音を立てながら食事したり、電車の座席で幅を広く取って座ったりといった行為です。これらの行為は迷惑であることが前提であり、そのうえで他人に我慢を強いることないし受け入れさせることでその行為がある種のコミニュケーションとして成り立っています。簡単に言えば子供のぐずりみたいなものです。文化人がいうところの日本人特有の「甘え」なんてものかもしれない。
私はこのような性質を帯びた極を「オジサン極」と呼んでいます。先に挙げた「オジサン極」による迷惑な行いは「空間に対して働きかける迷惑行為」であるといえるでしょう。そして遅刻については、それほどの生理的嫌悪感はないにしろ、その行為を他人に受け入れさせるという点で「オジサン極」に含むことができると考えています。さらにいえば、遅刻は「オジサン極」に由来する「時間に対して働きかける迷惑行為」だと云えます。パブリックな時間の取り分を人よりたくさん頂いているわけですから。
「食い意地を張る」なんて言葉がありますが、遅刻は「時間意地を張る」と言い換えることができるかもしれません。公の時間に対して一切の遠慮がないわけです。フロイトが云うところの肛門期に我慢を覚えられなかった人ですよね。
さて、もう一方の「他人を受け入れたくない」という極についてです。世の中には「オジサン極」的行為を絶対に受け入れたくない、全くもって許せないという人も当然います。所謂「嫌煙家」なんてのはそういう人たちです。他人の許しがたい行為に対して嫌悪感を露骨に態度で表していくタイプの人もいるし、それが度を越せば「オジサン極」的行為に限らずあらゆることに言いがかりをつけるクレーマーと呼ばれる人物になっていきます。これを「オジサン極」に対置するためにわかりやすく「オバサン極」とでも呼びましょうか。
まぁ、クレーマーなどはほとんど「オジサン極」の属性と言えてしまうので、そこが難しいところではあります。彼らの言い分は「私を特別扱いしろ」ということですから。どちらの極についてもその根っこには「私を特別扱いしろ」という思惑があるような気がします。
これらの極は通常、誰の中にも並列に存在しているものです。環境によってそのどちらが強く現れるかということでしかありません。
例えば遅刻家を100人集めて会社を作ったとする。そうするとそれぞれの遅刻の度合に濃淡ができますよね。遅刻家のなかでも軽度の人なんかはそういった環境では基本的に待たされることが増えるわけですから、自ずと「オバサン極」の表出が強くなっていくと考えられます。そして段々と他人の遅刻に苛立ちを覚えるようになるでしょう。最終的に全く遅刻をしない非遅刻家に転向してしまうかもしれません。
だから、身近に許しがたい遅刻家がいるのなら、自らがよりシリアスな遅刻家になることですね。とにかくその人を待たすようにすれば良いのです。平気で一時間遅刻する人がいたとしたら、そこからさらに一時間遅刻するようにする。都合二時間の遅刻です。これはかなり深刻な遅刻ですよ。ぞくぞくしますね。
しかし、不思議なことに、このような場合においてもお互いに張り合って遅刻競争が起こるなんてことはほとんどありません。なぜか遅刻家に遅刻家をぶつけるとぶつけられたほうは必ず「オバサン極」が強くなるのです。遅刻家の口から「あいつおっせぇな…」なんて言葉が聞けるかもしれません。「どの口が!」という指摘は言うだけ野暮でしょう。
「遅刻とは何か?」と尋ねられたら「弛まぬ思考停止の集積」であると身も蓋もなく答えています。
思考停止というのはとどのつまり物事を言語化するのを一切やめてしまうことですよね。遅刻しないように約束の時間と場所に到着するためには、そこから逆算してどういうタイムテーブルに則って行動すれば良いか考える必要があります。慣れない場所へ行かなくてはいけない場合は、電車の乗り換えだかと所要時間を調べたりしなくてはいけません。地図で道筋を確認することも必要です。つまり遅刻しないためには、行動を分節化してそのひとつひとつを言葉や数字に変換していかなくてはならない。まあ、そういったことは誰にとってもめんどうなものなわけです。だから人によっては、全て棚上げして寝てしまえとか、そういうアプローチが生まれてくるわけです。
寝るなんて最高の棚上げですよね。これこそ極上の思考停止です。プレミアム思考停止ですよ。そこに寝坊なんておまけがついて来た日にはもう堪りません。多くの遅刻家が「寝坊は天災」と考えていますが、私に言わせれば甘い。私は寝坊のことを「戦略的思考停止」と読んでいます。寝坊はより高次元の思考停止であるといえるでしょう。
喉元過ぎれば云々ということわざがありますが、遅刻も一緒で、到着していの一番に「すいません!」と謝ればそれでもう一件落着となってしまいます。これはなぜか。
大勢の前で遅刻した人物を咎めると「被害者-加害者関係」が逆転してしまいがちです。傍観者からすると叱られているほうが可哀想になってくる。遅刻した者のほうが周りの同情を買うわけです。だから待たされたほうもなかなか怒るに怒れないというところがあります。「おまえは官僚的だ」なんてレッテルを貼られてしまうかもしれない。そんな悪役を買って出るような人はかなり奇特であるといえるでしょう。
このような理由から遅刻は謝ってしまいさえすれば済んでしまうので、なぜ遅刻したのかということを言語化する必要はありません。そうすると失敗から教訓などは得られないし、経験が次に生きてこないのです。全てが場当たり的なのです。こういうことからも遅刻は「弛まぬ思考停止の集積」であると云えるでしょう。
遅刻癖が治りにくいのには他にも理由があります。例えば、遅刻で誰かを怒らせてしまったとします。それで反省して、次から遅刻しないように気をつければ済む話なのですが、人は誰でも自分の非を素直を受け入れることがなかなかできません。ですので、相手が怒ってしまったのはその日たまたま虫の居所が悪かっただけなんだと遅刻家は考えてしまいがちです。いつもだったら、この程度の遅刻に対して「まったくオマエってやつは」と半ばあきれながら笑って許してくれる。今日はきっと間が悪かっただけなんだ。そう考えると、それを証明したくなってくる。つまり、再度遅刻して相手の反応を確かめたくなってくるのです。それで実際に遅刻してみるとまた怒られるわけです。それでも遅刻家は今回もたまたま間が悪かっただけなどと考えて、再び遅刻してみて様子を見る。しかし当然注意を受ける。この堂々巡りです。ある種の反復行為ですね。許してもらえるまで遅刻家は遅刻を続けるのです。厄介なのは、許してもらうことができたら今度はもう一度許されたい安心したいと考えて結局遅刻してしまうことです。どう転んでも遅刻家は遅刻家なのです。
最後に、これはとても大事なポイントなのですが、遅刻は謝り上手でなくてはできない芸当ということです。
謝り方のコツは相手の「器」に謝罪をドバドバ注ぐことです。これを受けきれず溢れさせてしまえば相手は「器」が小さいということになりますから、決してケチらずにありったけの謝罪を注ぎ込むことです。溢れさせたらもうこちらの勝ちです。先輩の遅刻家で「遅刻は器のチキンレース」なんて名言を残した人もいます。ちなみに私は「遅刻は和解の物語」とよく言うのですが、これはあまりヒットしていませんね。話が逸れましたが、何が言いたいかというと遅刻家は謝罪家でもあるということです。反対に謝ることができない遅刻家は遅刻家失格といえます。
待たされたほうも、それだけではただの待たされ損にしかならないので、この機会を「器」の大きさをアピールするチャンスだと思って存分に活かしていただきたいですね。
いや、本日はご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした!

 

アリヴェデルチ、エゴサーチ

近頃P-FUNK(特にファンカデリック)が好きになったので少しずつCDを集めている。それにしてもダブり買いしてしまいそうで怖い。America Eats Its Young1曲目があまりにもクールすぎるので失禁しながら書いてます。ゲイリー・シャイダーに倣ってオムツを履いているので特に問題ありません。ドラムは誰が叩いているんだろう。ファンカデリックのドラムは、歯ごたえ(耳ごたえ?)があって、聴いているとおせんべいを咀嚼してるみたいな気持ちになる。食べているときに口を開けちゃいけませんね。
先日、早稲田のサークル「ワセレコ」主催によるイベントの終了後、たくさんの学生さんたちに混じって打ち上げに参加するという機会があった。そこで、延々ビールを飲みながら、野島さんにイギリスのロックについて色々と教えてもらうという学生のときのようなことをして、自分の相変わらずっぷりに涙がちょちょぎれんばかりだったが、結果的に楽しかったから良い。最近は誰かと音楽の話をする機会もめっきり減りました。
翌日の東京工芸大学(ジョギング中に通過する。まあまあ近所)でのライブにビート研(今はビー研というらしい)に所属しているというお客さんが来ていて少し話した。卒業する頃はほぼ死に体だったが、今は持ち返しているとのこと。ライブ後、日が沈む前から飲んで相当良い感じに。
わざわざ人に言うほどのことでもないかもしれないが(誰からも読まれていないという話もあるが。自虐ではなく本当に。アナリティクス導入の意味はあるのか)、一月ばかし前に、長年親しんできたエゴサーチをやめた。今のところ禁断症状のようなものは出ていない。やめて生活が大きく変わったということもないのだが、ストレスの種を一つ減らすことには成功できたかと思う。やらずに済むのならやらないに越したことはない。このままツイッターを開店休業まで持っていけたら最高だ。
禁煙に成功した者が喫煙を続ける者を嘲けながら「あんなものは百害あって一利なし!今日も飯が旨いぞ!君もやめたらどうだねアハハ」などと言って得意になっている図をここで演じるつもりはない。ただ、一月以上経過した今、誰かに自慢したくてウズウズしているということだけは否定できないだろう。一月ぐらいじゃ何の自慢にもならないことも承知の上だ。そもそもこれは自慢になるようなことなのかという疑問もあるがそれはさておくとする。どうあれ、こんなものは甘えの裏返しでしかないから、いくら自慢したつもりになったって結局は如何に自分が良い年して甘えん坊であるかということの表明にしかならないのだが。
その行為は、良い気分を得るために他人を一回かますところにどこか危うさがあるように思えたし、また、スマホさえあれば、いつでもどこでも、それが公衆の面前だろうと、しかも無料で何度でもできてしまうことにもどうも色気がないように感じられた。
軽い出来心で始めたその行為はいつの間にか習慣と化し、スマホを持つと反射的に指が自然とそれを始めてしまうという状態になってしまい、いよいよ、これってまあまあ地獄だよなあ、そこまで大したことじゃなさそうなのがかえって質悪いよなあ、と感じるようになってきたから、エゴサーチとはアリヴェデルチすることにした。
中にはエゴサーチに対して、マーケティング的な観点での意義を見出す人もいるだろう。そういった方にはその方向で進めていただけますと幸いでございます。引き続きよろしくお願いいたします。
エゴサーチに淫してばかりいると自分で自分を対象化して検証する能力が退化していくのではという懸念もあった。2015年にそんなものは必要とされていないのかもしれないが。
忘れられがちなことではあるが、我々の活動の多くは、単に人前に立つことではなく、基本的には人前に立って音楽を演奏することなわけで、それがなぜかと申せば我々が楽器演奏者であるからだ(その証拠にステージに立つ時は必ず楽器を携えている)。そして、楽器演奏者が自分で自分を検証する能力を放棄してしまったら、これは結構まずいことなのではないか。
まずい演奏というのはベチョベチョのチャーハンみたいなところがある。音符を水分に、休符を空気に見立てるとわかりやすいが、この両者のバランスがグルーヴおよびチャーハンの美味い不味いを分かつ大事な要素のひとつとなっていると言えるだろう。心地よい状態にグルーヴした演奏というものは、パラパラのチャーハンのように、水分=音符、空気=休符のバランスが良い塩梅に調整されている。おそらくこのバランスには黄金律のようなものがあるのだろうが、自ら楽器を演奏する限りにおいては、自転車の乗り方を覚えるようにして体得していく以外に手立てがないように思う。
ファッション誌を読んでいるとストリートスナップのページで「サイジング」について褒められている人が散見できるが、そういう「サイジング」みたいな微妙なところを姿見を見て調整していく感覚が、演奏する場合においても必要なのではなかろうか。だから、と続けるには些か飛躍があるが、エゴサーチの結果を鏡だと思い込むのはどうなの?ということにもなってくる。誰も「16分の裏が甘いのが気になって踊れなかった」みたいなことはつぶやかないし。誰も見てないから良いやと思って綻びを放っておけば必ずその綻びはジワジワと大きくなり、妥協する気持ち、自らを欺く気持ちも強くなっていくことだろう。
だいたい、楽器を使って何か音を出せばそれはもう音楽である、ということは自明だと言って差し支えないだろうが、本当にそうなの?という疑問も当然あるわけで、それってもはや楽器がアリバイのための道具でしかなくない?などと思うのだが、昔から「音で楽をすると書いて音楽」なんてことを言うし、元々がそういうものなのかもしれない。そして、そういったことはおそらく売れるとか人気が出るということとあまり関係がないことなので、ずっと軽んじられてきたのだろう。それでこの有様である。などと言うほどウブではない。
ところで先ほど「グルーヴ」という単語を持ちだしたのでついでに言っておくと、「グルーヴ」というものはどう考えたって舶来品で、「スタバにマックブック」というウンザリするようなクリシェに隣接した案件といって過言ではないだろう。だから結構「サードウェーブ系男子」(一瞬で死語に)などという揶揄を喜んでいる連中(=洋画を観ていて皆と違うタイミングで笑う日本人を許せないタイプの連中)から顰蹙を買いがちでもある。舶来品やハイカラなこと・ものに対してアレルギーがありながら、横文字で表記される「ロック」といった音楽のスタイル乃至カルチャーに接することは難儀なことであろう。そんな元マイルドサブカルの心情的居直り反動保守なんて無視無視(「文化的」な恨みは食べ物の恨みと同じぐらい怖い。喧嘩は品性を捨てた者が勝つ)なんて言って知らぬ存ぜぬで押し通しておけばきっと問題ないのだが、ここはひとまず「心中お察し申し上げます」と言ってお茶を濁しておこう。
思いっきり前言を撤回する形となってしまうが、正直なところ、世の中にはガッチガチのエゴサーチ魔で且つ演奏がめちゃくちゃ上手いという人も一億人ぐらいいるだろうから、この二つに大した相関関係はないだろう。ただ、オールドスクールの音楽家のダンディズムであったりクールな態度に憧れる身として、ベチョベチョのチャーハンの中でウェッティーにワイワイやるのはちょっとイヤだなぁ、わからないなぁ(裏糸井重里)、というただそれだけの話。楽しかった中学高校をいつまでも引き伸ばしたいのはわからんでもないが、良い歳して思春期の男同士の浮ついた触れ合いみたいなものを続けるわけにはいかんでしょう。
世に恐ろしいものはベチョベチョになったエゴが寄り集まって巨大なベチョベチョのチャーハンを形成して、しかも誰もそのことに気づかずにいるという状態だ。口の悪い毒舌家風の者などを調味料として適宜配置し味付けを濃くしてごまかすなんてことを始めた日には、もう本当に目が当てられない。毒舌家風の質の悪さは、アグレッシヴに見えてその実、他人に辛さを受け入れさせる乃至許してもらうという受動的な形でしか存在していないから精神の根っこは相当甘々で、辛いから油断してたけどめちゃくちゃ糖質高い!やばい!というところにある。
チャーハンも演奏も集団でさえもパラパラになっている状態が一番望ましいように思う。28年間生きて未だにベチョベチョ状態か中華鍋から飛ばされて孤立という状態のどちらかにしか立ったことがない人間が偉そうに語ることではないのだろうが。
ところで、巷間において、エゴサーチという言葉は、自分の名前や自分が関連しているもの以外の、例えば、自分が愛情を注いでいるものを検索する場合などでも使われているようだ。だから言いようによっては「日本」で検索することもエゴサーチの範疇だと言えるだろう。前に一度、シャレで「日本」でツイート検索をしてみたことがあったが、憂いている人が多く、良いようには書かれていなかった。
自分が愛情を持って接しているものも、相当ベチョベチョ化が進んでいるものの、エゴといえばエゴではある。しかし、それらをひっくるめてエゴサーチと呼んでしまってはなんだかややこしいし、むずがゆさもある。そこで提案したいのは、本来的な意味でのエゴサーチを「愛サーチ」と、愛着を持った対象をネットで検索することを「友サーチ」と呼ぶことだ。そして、自分の名前と好きなものの間にスペースを空けて検索することを、「友&愛サーチ」と呼ぶことにしたらどうだろう。我ながら最低の思いつきで、天晴れ!という他ない。
「愛サーチ」は英語の一人称である”I”と自己愛の愛がかかっており、「友サーチ」は同じく英語の二人称の”you”と友愛の友がかかっているわけである。ところで友愛って何なんだろう。
そういえば、近所に「友&愛」というゲーム屋さんがあったけど、何年か前に潰れてしまった。

 

「幻想の摩天楼」状態

レンタル用のDVDの冒頭には予告編が収録されている。早送りや倍速再生で飛ばしてしまうこともできるのだが、最近は操作するのも面倒に思えてきて予告編を一通り流してから本編を観るようになった。中には、おもしろうそうだなと思うものもあれば、つまんなさそうだなと思うものもある。全て観終わった頃には、虚脱とまではいかないまでも、なぜか憂鬱な気分になり、本編を観る前にぐったりしてしまう。
また、商品にポップをつけたりパネルを使って展開しているような小売店に長時間滞在していると、DVDの予告編を全て観終わったときと同じような疲労感に襲われてぐったりとしてしまう。
同様に、DVDレンタルショップや飲食チェーンの店内向けラジオ放送で流れている曲などは一度気にしてしまうとついつい意識して聴いてしまい、滞在しているだけで余計に疲れてしまう。
さらにインターネットを使って興味のある特定の物事について調べ物をしていても、有象無象の様々な意見に消化不良をお越し、途中からぐったりしてしまい、こんなことなら調べなきゃよかったとさえ思うこともしばしばある。
こういった状況のように、情報が過入力されてしまうと、スティーリー・ダンのアルバム「幻想の摩天楼」のジャケットに描かれている猛獣の形相で屹立するビル群を背にうずくまる男性のような気分になってしまう。ところで話は変わるが、あのジャケのようなイメージを携えたシティ型音楽がそろそろ出てきても良いんじゃないかと思うのだが、どうだろう。『身の丈に合った「おいしい生活」への架空請求!』みたいなコピーで誰かやったらきっと楽しいだろう。こういうのはエレガントにやるのがミソ。
SNSなど見ていると、次から次へとネットの記事を紹介するコメントが流れてくるが、それが絶対に読まなくて良いものだとわかっていても、いっちょ気の利いたイチャモンでもつけてやろうという下衆な心が働いてついついリンクを踏んでしまうという悪癖があり、これがなかなかに断ち難く、とても困っている。
音楽ストリーミング・サービスや音楽フェスといった昨今の「音楽の話題」を扱うような放談的なネットの記事に対しては、「心底どうでも良い」と言いたいがために読んでいるところがある。ストレスの種を増やして一体何がしたいのかよくわからない。下痢になるのがわかっていてもついつい辛いものを食べてしまうのと同じような心理か。まーた「音楽の話題」専門家が音楽とは一向に関係のない話をしてやんの、へへ、と言って捨て置けば良いものを。スノッブ喧嘩せずなんて格言もあるし。
だいたいああいう手合は「ネットで何か言いたい人たち」によってできた行列の先頭にいる人に過ぎず、そんな行列とは根源的に関係などないのだから、冷ややかな視線を送ることさえも無駄なエネルギーの消費であろう。
しかし本当に、その人にとって余計ともいえる情報がこの世には一切存在しないかのように振舞うことができる人もいて、そういう人に芯から憧れてしまう。身のこなしがエレガントでとても素敵だ。
思うに、余計な情報とはDAMチャンネルのようなもので、せっかくカラオケに来ているのにも関わらず誰もマイクを握ろうとしないという倦怠感に満ちた状況とともにそれはやってくるのだ。ちゃんと歌を歌ってさえいれば見なくても済むもので、普段の生活においてカラオケで歌を歌うことに該当することに積極的に取り組んでいないからこそ、自分にとって必要ではない情報に身を晒すことになる。今自分にとって歌うことに該当するものは一体なんだろう。それは『身の丈に合った「おいしい生活」への架空請求!』なのだろうか。よくわからない。でもマギーは好き。
https://www.youtube.com/watch?v=iHSnt9BTJbM

 

俺の小さな友達に挨拶しな!

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先日、軽い洒落のつもりで、Twitterのアカウントをブライアン・デ・パルマ監督の名作「スカーフェイス」でアル・パチーノが演じた主人公のトニー・モンタナ(Tony Montana)をもじって”Tory Montana”とした上で、ヘッダーやアイコンをしかるべき画像に変更し、自己紹介の欄におなじみの名台詞”Say hello to my little friend!”と書き込んだところ、みるみるうちにリムーブされ、フォロワー数が激減。数がモノを言うコンペティティブなSNSという場で、致命的な戦略ミスを犯してしまった。こういうことが起こるといつも決まって「やっぱりな」とつぶやくのだ。今まで調子に乗って一度でも良いことがあったか。
学生時代に所属していた軽音サークルの定例ライブでの出来事を思い出す。それは、スタジオの一室を借りて行われたライブで、VoidだったかMinor Threatだったか忘れてしまったが、我々のバンドがハードコアのコピーバンドをやったときのことだ。サークル員がモッシュの真似事を始めたので、我々もそれを煽るように暴れながら演奏した。無論、私も飛び跳ねてボーカル担当の先輩に体当たりなどしていたのだが、その最中に勢い余ってシールドに引っ張られるかたちでマーシャルのヘッドが地面に落ちてしまったのだ。そのときの友人の血の気の引いた顔といったらない。
ヘッドを戻して恐る恐るスイッチを入れてみると、元どおり音が出たので安心はしたものの、すっかり意気消沈してしまった私は大人しく残りの演目をこなしたのであった。終わってから近くにいた先輩をつかまえて「俺が調子に乗ると決まってこういうことがあるんですよ」と卑屈なことを呟いたら、先輩は「アハハハ」と笑っていた。
ところで、先日、電車に乗ってたときに印象深い出来事があった。
それは金曜の午後10時頃のことだった。電車に乗り込むと対面の扉にもたれかかりながら大きな声で通話している人物がいた。クールビズ姿の20代中頃と思われる男性で、子供が尿意を我慢しているときのように体をクネクネさせており、酔っ払っているように思えた。
次の駅で電車が止まると、私と同じ駅で乗り込んだサッカー選手のネイマールにどことなく似たところのある相貌の男性に「おい、しゃべるんなら外でしゃべろよ」と注意を受けたのだが、それを無視して話し続けるので、注意した男性は、通話を続ける男性の肘を軽く叩いて同じ言葉を繰り返した。車内の視線が一斉に二人に注がれた。
バツの悪い思いをした男性はそそくさと電車を後にするだろうと予想したのだが、彼は電車からは降りずに、一旦電話を切ると、発車と同時に注意した男性に絡み始めた。「なんなの。ちょっと意味わかんないわ」などと言いながら、クネクネした動きで顔を近づける。注意した男性もその反応に驚いていたようでキョトンとしながらも、車内での通話は迷惑であるということを改めて男性に伝えた。それを受けたクールビズ姿の男性の主張を補足しながらまとめると以下のようになる。
車内通話の何が迷惑なんだ。例えば二人連れの者などは電車内でも話すが、それと車内での通話は何が違うのだ。どちらも同じ話し声だろう。なぜ一方的に車内通話だけ弾劾されなければならないのか。注意した以上それを説明する義務があるはずだ。さあ、納得できるように答えろ。それができないのなら、私に注意したことを撤回するのが吉である。
もちろんこの通りに言っていたわけではないが、おそらく上記のようなことが言いたかったのだと考えられる。「うわあ、インターネットみたいなこと言うなあ」と思った私は完全にROM専と化していた。
座席に座りながら二人の様子を伺っていたストリート系ファッションに身を包んだ男性がイヤホンを外してカバンにしまうと立ち上がり、注意した男性に近づいていき「大丈夫ですか?」と声をかけた。
新たに現れた男性は通話していた男性に対して「さっきからずっと話してましたよね?言われなきゃずっと話してましたよね?」と尋ねた。「そうですよ。それの何がいけないんですか?」と返ってくるので、さらに「何で今怒られてるのかわかんないの?」と尋ねる。「わかんないすね」という返事に、ストリート系ファッションの男性はあきれ果てた様子で「あなたいくつよ?」と聞いた。良い年してそんなこともわからないのかというのである。クールビズの男性はさきほどのような勢いは失いつつも、車内通話も二人連れの話し声も同じ話し声なのだから、車内通話だけ注意を受けるのはおかしいというおなじみのロジックを展開したのだが、ストリート系ファッションの男性は迷惑なもんは迷惑なんだよとピシャリ。怒られていた男性が、事態を収拾することを優先するかのように「たしかに会話の一方しか聞こえないと不快に感じるって話もありますよね」ということを穏やかな表情で言うので「やっぱり確信犯じゃん!」と思ってしまった。
ストリート系ファッションの男性は、最初に注意した男性に対しての無礼を謝罪するように促し、怒られていた男性は笑顔ですいませんでしたと言いながら3度ほど頭を下げていた。ストリート系ファッションの男性は二人に背を向けて停車を待った。ドアが開いてストリート系の男性がホームに降りると、やや間をおいてクールビズの男性も電車から去っていった。注意した男性が残る車内は人の話し声がいつもより際立って聞こえるように感じられた。
車内に残った男性は、さらに二駅先で停車した際に、いかにも働き盛りといった風情のパリッとしたクールビズ姿の男性から、「よくぞ言ってくれた」という賛辞を受け握手を求められていた。働き盛りの男性はよほど感慨深かったようで、改めて握手を求めると電車を降りていった。働き盛りの男性に続いて私も電車を降りた。
今ここで我々が考えなくてはいけないことは、マナーとは一体何なのかということであるが、それはどこかの高名な元教授などがブログで良い感じの答えを用意してくれそうなので、それに期待したいと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=SN_Hix80m44

 

スヌープ・ドッグとファレルの「Bush」と私の2015年上半期

先々月ぐらいから久しぶりに会う人に太ったかと聞かれることが増えた。そのように自覚しているので、その都度太ったと返事をしている。肉付きが良くなったうえに、学生時代に買った服を未だに来ているから、ボディラインが露わになって太ったことがより目立ってしまう。
昨年の暮れに、帰省して毎日暴飲暴食を続けていたら胃が広がってしまったために、こちらに戻ってきてもラーメンやカツカレーなどがどうしても食べたくなってしまい、欲望の赴くままに日々のメニューを決定していたら、お腹まわりに贅肉がつきはじめ、頬もふっくらしてきて、さらに胸も大きくなってきた。それは売れっ子の中堅芸人を思わせるような太り方で、少し色気を感じさせたりすこともあるのだが、それほどに出世していない我が身を思うと、やはり分不相応であるから、過度なカロリー摂取は控えなくてはいけないと考えつつも、いつかこの食欲も収まるだろうという楽観的な気持ちでやりすごし、結局一年の折り返しに差し迫ったこの頃になってようやく腹が落ち着いてた。
今ここで、今年も半分終わってしまうのかという焦りとも諦めともつかない茫漠とした感慨に十年一日のごとく耽ったうえで、2015年の上半期を振り返ってみて思うことは、ヒップホップの新作が充実していたよなあ、ということである。
上半期に発売となったアルバムに、ケンドリック・ラマー「To Pimp A Butterfly」、タイラー・ザ・クリエイター「Cherry Bomb」、エイサップ・ロッキー「AT.LONG.LAST.A$AP」などがある。他にも、ドレイクやアール・スウェットシャツなどの話題作もあるけれどフォローしきれていない。また、この先も、フランク・オーシャンとインターネットの新作リリースがアナウンスされている。これらのラッパーは腰を据えてヒップホップを聴き始めた2012年前後にちょうど活躍していた人たちでとても思い入れがあるから今年は最高の年だなという気持ちで一杯だ。
2012年にヒップホップを積極的に聴くようになったのは、2011年に刊行になった「文化系のためのヒップホップ入門」という本を読んだためで、このことは個人的なヒップホップ史におけるサードウェーブにあたる。サードウェーブ系男子の面目躍如といったいったところである。そんなことはどうでもいいのだが、とにかく「文化系のためのヒップホップ入門」をキッカケとして、ヒップホップを自分史における「広義のアメリカンポップス」という枠の中に位置付けることができために、それまで今ひとつ捉えどころがないように思えたヒップホップに対してピントが合うようになった。というよりむしろ、度の合わないメガネを外してみたら却ってよく見えるようになったと言ったほうが当たっているかもしれない。

スヌープ・ドッグの「Bush」

今年の上半期にリリースされたアルバムの目玉の一つに、スヌープ・ドッグの「Bush」というアルバムがあるのだが、これがなんとも微妙な感触を残すアルバムだった。

@mushitokaが投稿した写真


まずなんといってもジャケットが謎。90年代のマイナーなギターポップバンドのジャケットみたいでヒップホップっぽくないし、どういう美意識があるのかよくわからない。プラケースも一般的な透明なものではなく、アメリカの雑貨を思わせるくすんだブルー一色で、どういうこだわりがあるのかよくわからない。個人的には好きな色ではあるが・・・
ところで、スヌープ・ドッグとファレルのコラボレーションでまず最初に思い出されるものは、なんといっても2004年の大ヒット曲で、日本においてはテレビ東京の深夜番組「アリケン」のテーマ曲としても忘れがたい”Drop It Like It’s Hot”だろう。

まさにクールの一言。この曲や、バスタ・ライムスの“Touch It”やリル・ウェインの“A Milli”といったタイプの簡素の極みといえるトラックがもたらしたインパクトったらない。ビヨンセの“Single Ladies (Put A Ring On It)”はこれらの曲に比べるとテンポも早く、幾分か派手ではあるが近しいインパクトがあった。
「Bush」に対して、スヌープとファレルのコラボレーションの中から前例を求めるのなら、マライア・キャリーの”Say Somethin’ ft. Snoop Dogg “が最も近いと感じている。

“Say Somethin’ ft. Snoop Dogg”でスヌープは節のついたようなラップを披露しているが、「Bush」においては、もはやラップをせずにほとんど歌っている。さらに男女混声コーラスで脇をがっちり固めており、そのことが、ヨーロッパのセレブっぽいハウスを思わせるスムースさのあるトラックと相まって、スヌープとファレルが背景と化しサウンドが先立つという、スヌープとファレルという世紀の二大スターががっつり組んだお祭りのようなアルバムにとっては謎というしかない不思議な現象が起こっている。その点についてもやはり微妙な感触を残すアルバムだ。
コーラスパートの多いアルバムである「Bush」において最も多くバッキング・ボーカルとしてクレジットされているのはギャップ・バンドのチャーリー・ウィルソンで、これまでにもスヌープのアルバムで何度も客演を果たしている。ヒップホップとは縁のある人で、最近では、カニエ・ウェストの“Bound 2”や、タイラー・ザ・クリエイターの“Fucking Young/Perfect”でもその歌声を披露している。ギャップ・バンドといえば、Nasの“Life’s A Bitch”の元ネタ、“Yearning For Your Love”でおなじみといってしまっていいのか自信はないが、とにかく80年代に多くのヒットを飛ばしたファンクバンドだ。
また、チャーリー・ウィルソンとともにバッキングボーカルとしてアルバムに貢献しているのはRhea Dummettという人物で、ファレルの“Happy”で聴くことのできる印象的な“yeah!”の声の主は彼女とのことだ。ファレルの率いるi am otherに所属しており、ツアーにも参加しているそうで、今年のサマソニでも彼女の歌声を聴くことができるかもしれない。
「Bush」の一曲目を飾るのは、先日PVが公開にもなった”California Roll ft. Stevie Wonder, Pharrell Williams “である。カリフォルニアロールといってもアボカドの巻き寿司のことではないことがうかがえる。

この曲などは、早起きした夏の朝に、散歩がてらに向かった喫茶店で流れていたりしたら、もう惚れ惚れとしてしまうのが容易に想像できる。というより、そんな御誂え向きのシチュエーションなど用意する必要もなく、音楽に耳をかたむけるだけで良い気分になるし、ああ、良いわぁと言って、うっとりとすること必至である。
ファレルとスヌープ・ドッグたちはカリフォルニアのウォーム&テンダーな日差しと空気をこの録音物に閉じ込めることに成功している。カリフォルニア州に足を踏み入れたことは生涯のうちに一度もないが、そんな気がする。しかし、そのような空気に触れることは、我らがPTAの最新作である「インヒアレント・ヴァイス」を観ることにより追体験が可能である。
ちなみに私はこの曲を聴いてフランスのAirというイケメンな上に音楽の趣味が非常に良いバンドのことを思い出した。“la femme d’argent”という曲はかつて東京ディズニーランドのトゥモローランドでBGMとして流れていた。”California Roll”のPVに出てくるアトラクションは「スターツアーズ」みたいだ。ついでにMoog Cookbookがカバーしたサウンドガーデンの名曲“Black Hole Sun”のムーグアレンジバージョンが流れていたことも書いておこう。うーむ、スペース・エイジ・バチェラー・パッド感覚。
「Bush」から感じ取れる手練れの技であるゴージャスでスムースな感触、そこはかとなく漂う緊張感とある種のイージーさにある時期のA&Mレコードを連想してしまう。と言ってみたものの、A&Mレコードについて詳しいわけではないし、A&Mつってもスワンプとか色々あるじゃんといった話もあるのだが、今はそのことをさておくとする。
スヌープがラップを控えてボーカルを取った「Bush」というアルバム、あるいはそこに収められた曲は、A&M産の、バカラックが自ら歌声を披露した自作の曲や、ハーブ・アルパートの”This Guy’s In Love With You”、ニック・デカロの「Itarian Graffiti」といったようなものとはいえないか。いえたとしてそれがどうしたという話ではあるが・・・
ボーカルについては置いておくとしても、少なくともゴージャスな面においてはクインシー・ジョーンズがA&Mに残した諸作に共通点を見つけることができるだろう。
「Bush」というアルバムは、かつてのA&Mのレコードがそうであったように、スヌープとファレルというスターのキャラクターが背景化したのちに、現在とは違った角度から評価を受けるのではないかと考えている。むしろ現時点ですでに、「リアルタイム再評価」とでもいうような、いささか倒錯した聴き方になってしまっている。それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。
クインシーといえば、「Bush」のどこかでマイケルの”Wanna Be Startin’ Somethin’ “を引用したようなところがあったような気がしたのだが、忘れてしまった。しかし「Bush」はどちらかというと「Off The Wall」的である。ネプチューンズで飛ばしていたころから、ジャスティン・ティンバーレイクとの仕事などで「Off The Wall」を思わせるサウンドには取り組んではいたが、それはバグを起こしたようなところがある突飛なものであった。今回の丁寧に作り込まれたトラックは「Off The Wall」のようなスムースさがある。
ここ数年、若手ラッパーのアルバムでプロデューサーとしてクレジットされたファレル・ウィリアムスの名前を見ることがままあった。例えば、手持ちのものから羅列していくと・・・フランク・オーシャンの「channel ORANGE」(2012)では”Sweet Life”、”Golden Girl”の2曲を、ケンドリック・ラマーの「good kid, m.A.A.d. city」(2012)では”good kid”を、ウィズ・カリファの「O.N.I.F.C.」(2012)では”Rise Above”を、アール・スウェットシャツの「Doris」(2013)ではチャド・ヒューゴとともに”Burgundy”を、マック・ミラーの「Watching Movies With The Sound Off 」(2013)では”Objects In The Mirror”をプロデュースしている。これらのトラックの多くは、スローテンポで、サウンド的には今日的なダークな響きがあり、総じて渋めである。一聴してそれがファレルの仕事であると判別するのは難しいところがある。これらをファレルのダークサイド仕事と無責任にいっておこう。ダークサイドといってもサウンドの傾向に限った話で、心理的なことはここではどうでも良い。あくまで仕事であるところがミソだ。
一方、2013年にリリースされたマイリー・サイラスの「Bangerz」に収録されている”#GETITRIGHT”と”4×4″では、その後の「G I R L」で聴くことのできる陽気者サウンドというべきトラックを披露している。
同年、これまでもファレルとのコラボレーションでヒットを飛ばしてきたJay-Zによる「Magna Carta… Holy Grail」では、”Oceans”と”BBC”をプロデュースしている。フランク・オーシャンをフィーチャーした”Oceans”は、アディショナル・プロデューサーとしてティンバランドがクレジットされている。この曲はダークサイド仕事といえるだろうが、一方、ナズをフィーチャーした”BBC”はファレル的な陽気なビートの上に仄暗い色彩のアコピのループがのっかった折衷サウンドといった趣だ。
また、2013年はフランス製のロボット二人組やロビン・シックとの仕事が大ヒットを記録した年でもあった。その後、ファレルがHAPPY街道をまっしぐらであることは皆さんもご存知のところであろうが、個人的にはダークサイド的な裏方仕事が念頭にあったので、表の顔で浮上してきたことがとても意外に思えたのだった。
ところで、今年の大目玉アルバムであるところのケンドリック・ラマーの「To Pimp A Butterfly」に収録された”Alright”をプロデュースしているのはファレルなのだが、これもダークサイド仕事の系譜といえるようなものであった。
最後に「Bush」に対して言及しておかなければいけないことがあるとすれば、概してベースラインが素敵であるということだ。それとついでに、「Bush」を聴いてハービー・ハンコックの「Feets, Don’t Fail Me Now」を思い出したことを言っておきたい。ハービーがボコーダーを使用してボーカルを取ったアルバムである。このアルバムの“Trust Me”は聴きもので、キリンジ兄またはリオン・ウェアのような哀感と色気に満ちたコード進行に、ロボット声が愛を語らうという珍事が繰り広げられているが、そこには謎の感動がある。さすがにスヌープはここまであからさまにはボコーダーを使用してはいないのだが。
ところで、タイラー・ザ・クリエイターがネプチューンズ及びN.E.R.D.のことを敬愛しているということは既にご存知の方も多いとは思われるが、4月に発売された彼の新しいアルバム「Cherry Bomb」ではそのことが素直に表れていてとてもよかった。

タイラーの繊細で垢抜けたコード趣味の魅力が存分に発揮された最高の曲。
このPVの流れとは異なり、アルバムでは”Fucking Young”に続くのは”Perfect”という曲で、曲名も”Fucking Young/Perfect”となっている。後半部の”Perfect”で歌声を披露しているのは、カリ・ウチスという人物だ。彼女が今年の2月にリリースしたEPではタイラーが2曲をプロデュースをしている。また、ほかの曲ではタイラーとも縁のあるBADBADNOTGOODがプロデュースを手掛けている。なぜ今これを紹介したかというと、このEPが特設サイト「Por Vida: Free DL — Kali Uchis」よりフリー・ダウンロードできるからだ。オススメ。
タイラーの音楽の趣味を知るには、以前彼がDJ Stank Daddy名義でインターネットにアップロードしたミックステープを聴くのが良いだろう。
Summer Camp Mix 2011
Summer Camp Mix 2012
そして、タイラーが敬愛してやまないN.E.R.D.の5年ぶりシングルがこちら。スポンジ・ボブの映画のために書かれた曲だそうだ。チャド&ファレルは平成のリーバー&ストーラーである!といった趣の楽しくてトロピカルなコミック・ソング。

いやはや下半期も楽しみだ。