憂いのベテランミュージシャンから、大学デビューの「ポパーイ」読者層まで、耳の早そうな音楽ファンみたいな振る舞いをする人たちから今年一番愛されつつあったのは間違いなくNanso Country Clubだろう、と誰かが言っているのをどこかで聞いたような気がする。「紳士のスポーツと環境破壊のマリアージュ」なんて評す声も耳に入ってきた。おもしろい。そう、それが彼らの、そう、第一印象だった。
千葉県市原市に居を構えて活動する彼らは、元々東京生まれ東京育ちのシティボーイたちだ。そんな彼らがあえて市原市に移り住んだのはなぜなのか。斜陽産業とも言われ断末魔を上げつつ生きながらえようとする音楽業界の主流から一定の距離を置いてマイペースに活動する彼らがどんなことを考えているのか。そんなことが僕はとても気になっていたのだったのだ。ボーカルかつメインソングライターのピョンヤンとキーボードのラブホテル君と小一時間ほど(インタビューは小一時間で終わらせる。それが僕のモットー)話をする機会を得た僕はそんな疑問を二人に投げかけてみたのだったのだ。
ちなみに今回僕が使ったレコーダーはお決まりのICレコーダーではなく、昔ながらのSONY製テープレコーダーだ。テープ特有のコンプレッションが利いたローファイだがウォームなサウンドが心地良い。Nanso Country Clubの音楽性にも相通じるところがあると僕は感じたのであったのだ。
なお、このインタビューは前後編に分かれている。前編は、若手ミュージシャンの中でも特にユニークな音楽性を持ったピョンヤンの音楽遍歴とバンド結成に至るまでの道程とラブホテル君の沈黙をフィーチャーした内容となった。
立川談寝具は練馬のほう
—現在はメンバー全員で市原市に移り住んで活動されているそうですが、元々は皆さん東京生まれなんですよね?
ピョンヤン はい、生まれた家は学芸大学の近くだったんですけど、小5のときに豊洲に引っ越しました。ラブホテル君は円山町のラブホテル生まれというどうでも良い設定が一応あるんですけど、本当は松濤生まれの松濤育ちで、親がマセラティに乗ってるような超ボンボンです。ギターの立川談寝具は練馬のほうで、トロンボーンの刑事トロンボは親が親なので場所は伏せておきます(笑)。
—そのことに関してはNGじゃないんですね。むしろウェルカムぐらいの感じですか?同じ境遇のミュージシャンでも触れられたくないっていう方が多いと思うのですが。
ピョンヤン トロンボ本人はどうしても先入観を持たれてしまうので嫌がるんですけど、変に触れないほうが余計に詮索されてしまうことってあるじゃないですか。だからこっちからガンガン言って、向こうが冷めちゃってもうどうでも良いよってなるとこまで持っていきたいんですよね。「お前はちゃんと実力持ってるんだし大丈夫だよ!KJだって昔CMで古谷一行と共演してたじゃん!」つって、結構いじっちゃってます。主に俺が(笑)
—ある種の開き直りというか。月並みな質問で恐縮ですが、どういうきっかけで今のメンバーと知り合ったのですか。
ピョンヤン まずラブホテル君とは、「ウォーハンマー」っていうミニュチュアゲームがあって、その大会で知り合いました。日本だとあまり知名度ないんですけど、海外だと結構人気があるんですよ。ボードゲームみたいな感じで、駒がモンスターとかロボットなんです。それを自分で塗装したりして。駒が小さくて精緻な作りなので、塗装にめちゃくちゃ細い筆を使うんです。冗談抜きで虫眼鏡とか使ってやるレベルです。
—他のメンバーとは?
ピョンヤン だいたいクラブで知りあったり、サーフィン仲間だったり、バーベキューやってたら誰かが連れてきたとか、数学オリンピックで知り合ったとか、そんな感じのゆるいつながりですね。
とりあえず『カントリー・ベアーズ』のサントラとか聴いてましたね
—音楽ありきのつながりではなかったということですね。そこからまたどういったいきさつでバンドをやることになったのですか。
ピョンヤン ざっくりと説明すると、俺が自分で音楽をやってみたくなって、知り合いで楽器できるやつを集めた感じですね。
—音楽がやりたくなったということですが、もう少し具体的なお話を聞いても良いですか?
ピョンヤン そもそもガキの頃から浦安のディズニーランドが大好きだったんです。中でもクリッターカントリー内のスプラッシュマウンテンが本当に好きで好きで。たぶん3ケタは余裕で乗ってると思うんですけど。そこから徐々にクリッターカントリーで流れてるような音楽にも興味が出てきて。でも最初は何を聴いたら良いのかわかんないから、とりあえず『カントリー・ベアーズ』のサントラとか聴いてましたね。
—カントリーだとかブルーグラスだとか、そういったアメリカンルーツミュージックに興味が出始めたわけですね。それまではどんな音楽を聴いていたんですか。
ピョンヤン 小学校の頃は主にエミネムを聴いてました。中学ぐらいから徐々にネイティブ・タン周辺を掘り下げていって。もちろんソウルクエリアンズ周辺も。それと平行してJBとかスライ、カーティスとかそういうブラック・ミュージックのクラシックも結構聴きました。兄貴の影響を受けつつ、って感じで。
—そこからカントリーに興味が移っていくわけですね。カントリーでいうと、『カントリー・ベアーズ』のサントラ以外にはどんなものを聴いてましたか?
CSの映画チャンネルでたまたま見た『クレイジー・ハート』の音楽が良かったからサントラ買って、T=ボーン・バーネットって人がいるってことを覚えて、そこから『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』のサントラを買ってみたり。コーエン兄弟の映画のサントラ揃えたり。あとはリバイバル上映で観た『ナッシュビル』のサントラも聴きました。
—ヒップホップからカントリーに興味が移るっていうのなかなかないパターンですよね。
ピョンヤン ヒップホップの場合は結構ファッションで聴いてるみたいなところがあって。もちろん音楽自体ものすごくカッコいいなと思って聴いてましたけど、日常にフィットするBGMって感覚が強かったかもしれないです。今思うとなんでアメリカのヒップホップが日常にフィットしていると感じたのかまったくもって謎なんですけど。一方クリッターカントリーで流れてるような音楽に対してはやっぱりあの風景込みで好きっていうか、とにかくあの世界観が大好きで。でも、ディズニーランド自体がそうですけど、あそこは非日常的な空間なわけじゃないですか。だから、非日常感を求めるっていう意識でクリッターカントリー的な音楽を聴いていた感じですね。それと、テイラー・スウィフトが元々カントリー歌手だったってことも結構ショックで。
「はいはい、ジブリね」みたいなテンションで
—話が前後してしまいますが、そこから実際に自分でもやってみようと思ったきっかけは何だったんですか。
ピョンヤン 結構ベタで恥ずかしんですけど、いわゆるアレです。『耳をすませば』。
—聖司くんが「歌えよ。知ってる曲だからさ。」と言って雫に「カントリー・ロード」を歌わせるシーンですか。
ピョンヤン そうですそうです。当時高校生だったから結構「はいはい、ジブリね」みたいなテンションでテレビ観てたんですよ。で、例のシーンで出てきたお爺ちゃんたちがめちゃくちゃ渋くて、気付いたら心奪われてましたね(笑)。それで、楽器弾けるようになんないと!と思って、翌日早速楽器屋に行きました。
—そこで買ったのはアコギですか?それともバンジョー?まさかフィドル?映画だとリュートを弾いてるおじいさんなんかもいた気がしますが。
ピョンヤン 鍵盤です。キーボードっていうんですか。ボタンが光ったりして見た目がカッコ良かったし値段もそこそこだったんで。ディズニーでいうとトゥモローランドの感じで、テンションあがって。なんだかんだスター・ツアーズとかもやっぱ好きなんですよ、結局。で、家帰って封開けていじったんですけど全然音が出ないんですよ。ていうか電源入れるところさえないんで、なんだこれ不良品かと思って。それで、ラブホテル君に連絡したんです。彼がニコニコ動画で何か音楽っぽいことやってるって知ってたんで、機械のことに詳しいんじゃないかって思って。そしたら「それMIDI鍵盤だよ」とか言われて。「は?」って感じだったんで、そんときに俺めちゃくちゃキレちゃって。まあ、でもそのあとラブホテル君が一から教えてくれたんです、DTMに関する知識を。
—ということは、楽器を始める前にいきなりDTMから始めたんですか?
ピョンヤン いえ、なんかやりたいことと違うなと思ったんで、結局そういう方向には行きませんでした。でもラブホテル君とせっかくだから一緒に何かやろうよって話になって。ひとまず彼には『カントリー・ベアーズ』のサントラを聴かせました。そこから俺の鼻歌をラブホテル君に曲っぽく仕上げてもらうっていう作業をやり始めて。そのときから自分で歌詞を書くようになりました。同時にラブホテル君にアコギを借りて練習したりもしてましたね。でもやっぱり出自が『耳をすませば』の例のシーンだから、ああいう感じでやりたいねって話してて。それで、知り合いに楽器やってる奴いないかって探して、興味持ってくれたのが今のメンバーですね。
—その時点で既にバンド名もNanso Country Clubだったんですか?「カントリー」っていうテーマがあったうえで。
ピョンヤン バンド名に関してはメンバーが揃ったタイミングで今の名前をつけましたけど、テーマ的には「カントリー」っていうより「ゴルフ」ですね。
—「ゴルフ」ですか?
ピョンヤン 元々親父がゴルフやる人間で。母親も母親で打ちっぱなしに行って運動不足を解消する感じの人だったんです。だから、小さい頃から家にゴルフクラブがあるのが当たり前の環境だったし、日曜日はテレビで親父の横でゴルフ中継見たり、パターマットで遊んでみたり、家族でマリオゴルフやったりみんゴルやったりとか。そんな感じでゴルフがすごく身近だったんです。兄貴はワーゲンの二代目ゴルフをレストアして乗ってましたし。あの車ってめちゃくちゃかわいいじゃないですか。そんなこともあってゴルフっていう単語にものすごくポジティブな印象を持ってたんです。今で言うとタイラーとかも結構使ってますよね。でも、そのまんま使っちゃったらもったいないっていうか、大事なときまで取っておきたいなって思ったので、ゴルフはあえて使わないで今のバンド名にしました。クリッターカントリーのカントリーともかかってるし、おもしろいかなと思って。
後編に続く
https://www.youtube.com/watch?v=S2DTLbTQj0I
のとりいあす日記
猫ちゃんたちのパジャマ・パーティー!
「名盤か、茶盤か」という問題は依然として立ちはだかる。もちろん手応えを感じる日もあるにはあるものの、そうなんでもかんでもころころころとスムーズに物事が進んでいくわけではないから、ふとした瞬間に「茶盤」という言葉が目の前に立ち現れてきて、その度に虚脱を覚える。
あまり具体的なことを言って生々しくなってもしょうがないので、ぼんやりとしたことしか言えないが、「これって砂漠に水を撒いてる状態じゃねーの」という気持ちは常にある。基本的には自分のやっていることが歯医者さんの受付でおはぎを売るかのように頓珍漢なことではないのかという不安に苛まれているから、毎晩寝付きが悪い。
あれやこれや考えたところで、疲れるばかりで良いことなど何ひとつない。すべてに対し「もうなんでも良いよ。面倒くさいし」という態度を取っていれば良いのかもしれない。しかし、「こだわりとか…ないっすよ。ぶっちゃけよくわかんなくないすかぁ?」「そうなんだよね!正直わかんないよな!(な、おまえもそうだよな?)」などと言って全ての物事をナアナアにしてヘラヘラヘラヘラしている手合に対しては、『ドライブ』のライアン・ゴズリングのように、頭を踏んづけて頭蓋骨を粉々に砕いてやりたくなるほどの苛立ちを覚える。頭に血が上りすぎて視界に赤みが薄っすらとかかるほどだ。だから自ら進んでそういう輩どもの仲間入りしようなどとは到底思わない。
経済の効率という観点から、いわゆるミュージシャンのこだわり的なものを無駄なものとして排していくことがむしろクールだとする向きがある。七面倒臭いこだわりなんかよりも、「バズ」だとか「ストラテジー」みたいなことを重要視するのが当世風らしい。そんな三流のIT社長、五流の広告代理店でも言わないであろうことを得意顔で語られても反応に困ってしまうので、できることなら控えてほしい。
ただ、そうしたいかにもスマートでリアリスティックとでも言いたげな態度への反発心から、自分たちだけが真っ当な行いをしているかのごとく振る舞ったり、自分の好きなものに対して「○○の良心」というような言い方をするのはただの思い上がりでしかない。本来的に真摯な態度というものはもっと静かで人肌よりやや低いぐらい温度を保った態度ではないのか。やはり今の自分にとって本当に必要なのは粛々と物事を信じるということだろう。
橋本治曰く天才とは「何遍でも死ねる人だと思う」とのことだ。しかし現実は、毎日毎日、何をしようと、またどんな工夫を凝らそうと、淀みに嵌った笹船のようにくるくるくるくると同じところをただただ漂っているだけだという気がして、気が滅入るばかりだが、OMSBの”Think Good”を聴けばなんとかなるという気がしてくるので、毎晩聴いている。
トリリンの『ハピネス廃棄物最終処分場』
もう何年も前のことだが、ライブハウスで面識のない人に —別にこちらから何か話しかけたわけでもないのだが— 行きがかりで「あたし吉田派なんでぇ」と通告されたことを折に触れては思い出す。と書き出しておいて何だが、余計なことを書いても何かと面倒なのでこの話ついてはやっぱり止しておこう。そんなに大した話でもないし、どうでも良いといえばどうでも良いし、すべてが、森羅万象が。
過日。『シング・ストリート 未来へのうた』鑑賞。『はじまりのうた』がとても良い映画だったので期待して観た。ものすごく泣かされたけど、やっぱり『はじまりのうた』のほうが好き。『シング・ストリート』で一番良かったのは夫婦喧嘩が聞こえていないふりをして兄弟3人がレコードに合わせて踊るシーン。こういうところがジョン・カーニー監督の良いところじゃないのか。
過日。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』鑑賞。ノア・バームバックは日本では不遇の扱いをされているような気がする。ベン・スティラーとグレダ・カーウィグ主演の”Greenberg”はDVDスルーどころか配信スルー。邦題は『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』。amazonビデオで配信していたので鑑賞。
『フランシス・ハ』は同じ年頃の女性が主人公なので身につまされて鳩尾がキュウっとなる映画だけども、良い映画だった。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』はもっとラフに笑えた。ベン・スティラーは被害者意識や自己憐憫が強い役どころやらせたらもう本当に最高。被害者意識や自己憐憫が強い人におすすめの映画。アドム・ドライバーはカイロ・レンと同様、役者っぷりを存分に発揮。
それにしても、『イカとクジラ』、『マーゴット・ウェディング』は観てて本当に嫌な気持ちになる映画だったけれど、それに比べるとノア・バームバックも大分ウォームに。と言っても悪辣なジョークは健在。
スタッフロールで流れてきた曲がとても良くて、なんだろうと思い、クレジットを凝視していたらポールの曲だと判明。”Let ‘Em In”という曲。声と曲調でわかるだろという話だが、最初にエミット・ローズの曲かなと思ってしまったのだ。
過日。『シン・ゴジラ』鑑賞。大学の先輩、阿部翔平さんが出ていて驚いた!
過日。『DOPE/ドープ!!』鑑賞。ポスターなどから音楽映画かなと思っていたけど、長谷川町蔵・山崎まどかのコンビがいうところのアメリカ学園映画だった。ところでアメリカ学園映画とか青春映画って本国ではなんと呼ばれているのだろうと思って調べてみると、どうも”Coming-of-age story”と呼ばれていることがわかった。
『DOPE』の主人公は、黒人のステレオタイプからはみ出すキャラクターで、勉強ができて白人のようにスケボーを嗜む。90年代のヒップホップのオタク。ただし母子家庭で、住んでいるのもギャングたちがたむろする治安の悪い地域だ。言わば”M.A.A.D City”の”Good Kid”。
主人公の人物造形はこの映画のエグゼクティブ・プロデュサーであり、劇中歌を提供したファレル・ウィリアムスの生い立ちを参考にしているようだ。主人公たちが組んでいるバンドは「オレオ」という名前で、「オレオ」とは白人のような趣味を持つ黒人を指したスラングだ。ファレルも子供の頃は白人の仲間とつるんでいたためにオレオと揶揄されていたとのこと。
この映画を観て改めてネプチューンズとN*E*R*Dが与えたインパクトの強さがなんとなくわかったような気がした。ネプチューンズがいて、現在タイラー・ザ・クリエイターとかジ・インターネットがいるということを再確認。音楽的な影響だけでなくて、在り方として。
劇中で使用されてる曲は主に90年代のヒップホップで、選曲も良かったし、使われ方もタモリ倶楽部のBGMみたいで洒落が利いていた。
あと、主人公の友達のレズビアン役の女の子が可愛かった。それと、ヴィンス・ステイプルズがエイサップ・ロッキーの仲間役でちらっと出ていた。
はなしかわって(映画は未見)。
この間、ぼんやりと「やっぱり名盤を作りたいよなぁ」なんて考えていたら、「茶盤」という言葉がふと頭を過ぎって体中から力が抜けてしまった。このような脳みその構造には我ながら本当にうんざりする。
何かに取り組もうとするときに付随してくる根源的な馬鹿らしさを払拭することにものすごく体力を使っている気がする。考えれば考えるほどに何がしたくてやっているのかわからなくなる。それ故に「だからもうやらないんだよ!」の精神に結びつきもする。好きで始めたようなことだが、もはや社会主義的な労働としか思えなくなってしまった。
そう考えてしまうのは結果だとか反応だとかの外的要因に精神の在り方が左右されているからだろう。意識していないつもりでも心のどこかで見返りを求めてしまう。それが人情というものなのかもしれないし、または気の弱さと言えるかもしれない。それでもやはり邪念を振り払って物事を推し進めるのは難しい。なぜなら生活等々があるから。この間まで旧ソ連のプロパガンダのポスターを眺めては自虐的に己を奮い立たせていたが虚しくなるだけなのでもう止めた。
音楽活動は、例えば遠足のようにそれ自体が目的であるものではない。もはや誰もそんな風には考えないのかもしれないが、音楽活動に携わることの主軸が未だに音楽にあるのだとすれば、それをおざなりにしてただそれらしいだけの活動に感けることにはやはり心苦しさがある。調子の良いことばかり口にして、足元がおろそかになってしまうようではどうしようもない。いくら体裁良く活動ができたところで、内容が充実してなければモチベーションは保っていられない。
しかしいくら個人がそんなことを考えようが、人の流れというのはそんなことを端から問題にしていないという面もある。通勤ラッシュ時の人がごった返しになった乗り換え口を移動するときのように人の流れに身を任す以外にどうすることもできない。立ち止まったり流れに逆らうことは難しい。そこでは全てが液状化し、どんな懊悩もとりこし苦労と化す。疲労だけが蓄積されていく。
だから、もうそういうものは別として、一人で勝手に「趣味に還る」ということをやっていけば良い、と考えた。もちろん「やっぱり名盤作りたいよなあ」とか「自分が好きだと思える音楽を完成させたいよなあ」という意志はあるが、その一方で、子供の頃に誰に頼まれたわけでもないのまん丸でピカピカの泥だんごを作ることにひたすら没入したように一人遊びがもたらす気持ちの高まりを迂闊に扱わないようにしなくては、とも思う。と言ってもそんな遊びをしたことはないが。現状に即して言えば、気になったことをとことん調べたり、お店にCDを買いに言ったり、好きな曲をコピーしたりといったことをアブソリュートエゴ行為として気ままに楽しんでいきたいというただそれだけの話。
しかし、それはそれ、これはこれ、である。取り組むべきことにはきちんと取り組まなくてはいけない。当然、妥協や手抜きに加担したくはない。いくら妥協したり手を抜くことに心血を注いだところで、「ああ!あのとき妥協したり手抜きして本当に良かった!」という風に思うことは絶対にない。むしろ、心の底からこれで良かったんだと思えないのであれば、妥協や手抜きするだけ無駄だ。やはり妥協や手抜きをするのであれば、「出来には全く満足できていないけど、手抜きや妥協の結果、とても楽できたので良かったと思います!」ぐらい言わなきゃウソだね、と思う。「音で楽をすると書いて音楽」と言うぐらいだし。
妥協や手抜きから距離を置きたい、関わり合いを持ちたくないなどと言ってみても、実際に何かをするということはやはりとても大変なことだ。信念とでもいうべきものに基いてより真摯に物事に取り組もうとすればするほど摩擦係数も大きくなる。精神はガリガリと削られて摩耗していく。すこぶる当然だと思うことをやっているだけなのに「ストイックな職人気質」なんて見当違いのことを言われる。そこまでして何かをするくらいなら「がんばります」とでも嘯いたうえで、何もせずにだらだらと過ごしていたほうが心身にとっても良いことではないのか。周囲も「もう、おまえってやつは。本当に仕方ないんだから」などと言いながら満更でもないような様子で接してくれることだろう。それこそ低値安定というものだ。下手に波風を立てるぐらいならば問題を棚上げにして和気藹々と現状維持に努めるのもひとつの手であろう。
いや、もういい加減そんな生ぬるい態度は唾棄すべきである。そんな下らないものに対しては体が干からびて朽ち果てようとも唾を吐きかけてやらねばなるまい。
はなしかわって(映画は未見)。
近頃はドラムのことが気になって気になって仕方がなく、インターネットを使って色々と調べ物をしていたらおもしろいコラムを見つけて、一気に全部読んでしまった。
三原重夫のビギナーズ・ドラム・レッスン
三原重夫さんはローザ・ルクセンブルグ(学生時代にコピーバンドをやったことも…)のドラマーとしてキャリアをスタートされた方で、現在はドラム・チューナーやエンジニアとしても活動されているとのこと。
不遜な言い方ではあるがまさに我が意を得たりといった感動があったし、やたらと難しく考えてしまう節があったところをもっとシンプルに考えろという示唆も与えてくれた。グルーヴだのタイム感だの言ったところで、4分の4拍子がきちんと演奏できていなかったらどうにもならない。4拍子を手拍子で合わせるところから始めるつもりで合奏することに取り組んでいきたい所存であります。
https://www.youtube.com/watch?v=0y0v7zpHJkU
トリリンの『日々是ハピネス!』
▪️前回までのあらすじ
「不明なアーティスト」に出演した際に、学生時代に通い詰めた在りしの日の部室を思い出し、懐古の念を強くする鳥居であった…
角川シネマにて『ミスター・ダイナマイト:ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』鑑賞。
印象に残ったのは、メイシオ・パーカー、メルヴィン・パーカー、ピー・ウィー・エリス、フレッド・ウェズリー、クライド・スタブルフィールド、ジョン・ジャボ・スタークス、ブーツィー・コリンズといったミュージシャンたちのJBへの思いが皆一様にビターということ。もちろんギャラの未払い問題などで、態度に現金なところがあるのもやむ無しとは思うが、変に美談に持って行ったりせず、長いキャリアの中の仕事のひとつとして振り返る姿がドライでとてもクールだった。
美談というものは活動に潤いを与えることもあるが、同時に湿気らせもするし、もっと行き過ぎれば液状化させもする。活動する側が美談ありきの湿っぽい活動を続けた場合、その活動はグダグダでビチョビチョなものになりがちだ。昨今はSNSなどを通じて長い長い梅雨のように美談がしとしとしとしと降り続くので、どうしてもアン・ピーブルズのような心持ちになってしまう。
ヒップホップのブレイクの大定番「ファンキー・ドラマー」を演奏したクライドご本人によれば、「全然好きじゃない。あんなもんはやっつけ仕事だ」とのことだ。これを聞いて思ったのは「スタンダード」を作るのはやはり聴く側ないし受け取る側の方であるということ。ここでまた「”わたしゃ富山の押し売り男”の受け売り男」の登場だが、大滝詠一は「ポップス”普動説”」の中で以下のように語っている。
「歌は世につれ、というのは、ヒットは聞く人が作る、という意味なんだよ。ここを作る側がよく間違えるけど。過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことなんてないんだ。作る側はあくまで”作品”を作ったのであって”ヒット曲”は聞く人が作った。」
『ミスター・ダイナマイト』に登場したミュージシャンたち、加えて『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』に登場した名うてのスタジオミュージシャンたちも、業界の酸いも甘いも味わいきったような風情があり、なんてことのない様子で語る姿がまた渋いというかクールだと感じた。また眼光から放たれるミュージシャンとしての矜持にすこしクラクラした。
ところで、プロモーションの一環で行われるインタビューで「おもしろい!」と思えるものって相当稀ではなかろうか。特にネットのコンテンツ。あれって誰のために作られているものなんだろう。「CDTVをご覧の皆様!」みたいなお約束的なものか。受ける方も受ける方でプロモーション故に無下にはできず、渋々やって、やっつけ程度に適当に流すのがマナーみたいな風になっているが、そんなもん読んでもねぇ。読むほうも無料だしこんなもんかと思って読んでいるのだろうか。「何か書いてあったな」程度のものがネットでは良い湯加減なのかもしれない。でも本当はレコミンツのHPでやってたミンツバーとか、ああいうのが読みたいですよ、こちらとしては!そういえばインタビューのお金の流れってどうなっているんだろう。どっちがどっちにお金払っているのだろうか。
はなしかわって(映画は未見)。「ずっと居心地の良い所にいてはダメだ」みたいな考え方ってあると思う。居心地の良い場所に留まっていると、そこに埋没してしまい、その結果、魂が淀んで腐ってしまうから良くない、というような。
既に「在りし日の部室」という表現を使ったが、これは自分にとって居心地が良いものの象徴だ。もはや失われてしまったものではあるが。
大学生活の終わりごろから、話が合う人と日常的に接するということがなくなり、ある種の欲求不満のようなものに苛まれて、こんなようでは先が思いやられるぞと危機感を覚えることがあった。それほどまでにサークルにおける人間関係を内面化していたということか。
そういう危機感もあったし、「ずっと居心地の良い所にいてはダメだ」みたいな考え方が自分の中にも少なからずあったのに加え、よく人文系の偉い人が「他者と出会う」みたいことを言うので、それを真に受けて、いささか自分本位の身勝手な言い草ではあるが、いまいち話が合わなかったり、大前提となるような感覚が共有できそうもないことが端からわかっている環境に身を置く場合でも、何かしらの刺激になるだろうと思ってしぶとく居座ることもあった。
これが果たして「他者と出会う」といえるのか、といった疑問が頭をもたげつつも、結局状況におし流されて、ただただ時間だけ過ぎていく、というパターンをあまりにも多く繰り返しすぎた。常日頃から共感なんぞ傍ら痛いなんて考えているつもりであっても、自分以外の者が全く同意できないことに対して「わかる」「そうなんだよ」「なっ!」なんて言い合っているのがごく当たり前の環境にいるとさすがに心細くもなる。「やっぱり雨降って地固まるよな」「そうなんだよ」「結局ね」「今地固まってんのも雨が降ったからなんだよね」「わかる」こんな会話を素面で聞いていられるものか。
ふと我に返ると自分は一体何がしたいんだろうと考え込んでしまう。このまま十年一日のごとくこんなことを続けていくことに何か意義があるのかと考えてしまう時間が日に日に増えているような気もする。年に数回、短期的に居心地の良い環境に身を置いて何かに取り組むことができる機会があるので、日常が尚惨めに感じられてしまうというところもきっとあるだろう。結局、自分で「出会い」にまで昇華できていないだけの話だろという指摘もあるだろうが、今は捨て置くとする。
小さい頃、ケガをしたりして痛がっていると、祖母が「生きてる証拠」と気休めの言葉をかけてくれた。居心地が良くない環境は基本的に摩擦係数が大きく、不和やもどかしさが常にあるから、心に負荷がかかり、ストレスという形で「生きてる証拠」のようなものを与えてくれる。しかし、その気休めの言葉をとっかかりにして事態を受け入れたとしても、さすがに荒涼としすぎているというか、サバイバルが過ぎるというか、寄る辺なさにもほどがあるのでは、と考えてしまう。そもそもの話、こんなものは無益な我慢でしかなく、消極的に嵐が過ぎ去るのをただひたすらじっとして待っているだけではないのか。
そのような自分を対象化し「タフな状況でも常にファイティングポーズを取り続ける男」といったセルフイメージを抱き、ヒロイズムに酔いしれるという方法もあることにはあるだろうが、そんなものは馬鹿馬鹿しいと感じてしまうので採用は難しい。どう考えたって間抜けだろう。
それでもやはり、似たような格好をして似たような考え方をする者どもが寄り集まり、互いに目配せして「どうよ?」「最高」とやっているところに、また似たような格好をして似たような考え方をする者どもがどこかしらから集まってきて「いいね」などとやっているのを傍から見ていると、消化されつつあるものが胃からこみ上げてきて吐き出しそうになるし、つまり反吐が出るということだが、さらに言えばそんな輩どもには血反吐を浴びせかけて回りたい衝動に駆られるし、賞賛のロンダリングしては恍惚とした表情を浮かべ悦びのあまり涎を垂らしてプルプル震えているような集団の一員になるぐらいなら、決して居心地が良いとは言えない環境でこめかみに青筋を立てて一人でプルプル震えていたほうがまだましではないかと考えてしまう。そんなふうに考えてしまうのは負け犬根性が染み付いてしまっているからだろう。
こっちは6年ぐらい前から「混血」というテーマがオブセッションになっているので、そういう純血野郎共とは相容れるわけがない。しかし、相容れないという理由で排除するのであれば「混血」というテーマから外れてしまうのではという懸念もある。それでもやはり四六時中血反吐を吐いているわけにもいかないので嫌いなものは嫌いと言う他ない。明日には好きかも。
気の置けない仲間たちと内輪でワイワイやることの楽しさはわかっている。一方でウディ・アレンが紹介したことで有名なグルーチョ・マルクスのジョーク、「私を会員にするようなクラブには入りたくない。」みたいこともあるから、何をしていても”100% FUN”というのはなかなかに難しいことと思われる。
「他者と出会う」とはつまり「個人と個人が出会う」ということで、それは決して「個人がある集団に溶け込む」ということではないはずだ。しかし、被害妄想の気があるだけかもしれないが、どこに行ったって少なからず「同化」を求めてくる人というのはいるし、それがあたかも「大人の作法」であるというような聞こえの良いすり替えを行う人もいる。自分が特定の集団を代表しているかのように居丈高に振る舞う、パーソナルな領域とパブリックな領域がグダグダになっているような人だ。自分では自分のことをただぬるいだけの付和雷同タイプの人間だとしか思わないが、こういう人物が目の前に現れると絶対にそちらに合わせてたまるものかよとついつい身構えて対応してしまう。
もう何年も前の話だが、当時付き合っていた彼女と喧嘩をして彼女を泣かせてしまったときのこと。しきりに謝りつつも「でもそんな泣くほどのことだろうか。明日友達に話して意見を聞いてみよう」などとぼんやり考えていたら、落ち着きを取り戻した彼女に「どうせ俺の彼女こんなことで泣くんだよって友達に話すんでしょ」とズバリ指摘されてしまい冷や汗をかくということがあった。取り繕いながらもその鋭さに感心して思わずハイタッチしたくなった。
しかし、よくよく考えてみると、我が身においても彼女のように感じてしまうような状況は今までに何度もあった。人は一対一の関係に社会的な要素を持ち込まれると案外すぐに感づくもので、例えば、自分がちょっと変なことを言ってしまったときなど、相手の目線の外し方と口元の緩みから、「これ後から別のところでなんか言われるな」と何となく察することができる。自分でも身に覚えがあるからこそ痛感するのだが、こういった行いは対人関係におけるマナー違反であると同時に、一対一できちんと相手に向き合えない自分の心の弱さをやり過ごすためのズルでもある。
端から社会ないし特定のコミュニティを背負って接してくる人もいる。先述の「自分が特定の集団を代表しているかのように居丈高に振る舞う、パーソナルな領域とパブリックな領域がグダグダになっているような人」のことだ。鉄砲玉気質というか、実行犯気質というか、十字軍モードになりやすいタイプというか。こういったミッションに駆られがちな性格の人物と無理なく親睦を深めていくにはどうしたら良いのか皆目検討がつかない。
実験的にそのような人物が一人きりで過ごしているところを想像してみることにしよう。真冬に夜の住宅街を歩いている。手が悴むので、彼は自販機で温かい缶コーヒーを買ってホッカイロの代わりにしようと考える。取り出し口の缶コーヒーを掴むと思いの外熱く咄嗟に手を離してしまい、缶を地面に落としてしまう。地面を転がる缶。そんな場面を想像してみるとなんだか物悲しくなってしまい憐れみの心がふっと湧いてくる。
換気が不十分で息苦しい社会と呼ぶべきものに空気の抜け道を作るのは一人きりのすこぶる地味な時間であろう。常に満員電車を担いで生きているような人にも一人きりの地味な時間があると考えればなんとなく取っ掛かりを持てるような気もする。しかし「おれは一人の時間なんていらない!」と強く宣言した人も身近にいる。彼の場合はやや反動的なきらいもなかったとは言い切れないが、別に一人きりの地味な時間なんて人生に必要なしという人も案外いることだろう。
「同調圧力」なんていうどうでも良い感じのネットスラングがあるけれど、そのような圧がかかっていることに安らぎを覚えるという人たちもいるだろうし、反対に、同調圧力をてこにして自分を成り立たせている人たちもいるだろうから、「同調圧力」が悪であると一方的に断罪するのは何だか違うような気もする。
それでもやはり悪でしかないと思う。しかし、それを頑なに拒むことは、「アンチ巨人」「アンチApple」みたいなもので、考え方の根本的な部分としてはほとんど同化することと変わりはなく、そういったものを他山の石としてもっと柔軟かつ虚心坦懐に考えてみても良いとは思うが、最終的には、嫌いなものは嫌いという結論に落ち着く。明日には好きかも。
「どや、わてらの飲み会おもろいやろ?」というような飲み会に来てしまったとき、「わちゃあ」と心の中で嘆かずにはいられない。
「どや」と関西弁で言ってしまうと誤解を生みかねないので言い方を変えたほうが良いかもしれない。文化の東西問わず、出身地がどこであれ、「どや」感覚一般が大嫌いという人もいるだろう。そういう自分も「どや」感覚一般が苦手だ。
「どうよ、俺らの飲み会最高っしょ!」というような飲み会に来てしまったとき、「わちゃあ」と心の中で嘆かずにはいられない。そのような飲み会とは言わば「サービス精神」の皮を被った「アテンション集めたがり精神」と「和を以って貴しと成す」もとい「赤信号皆で渡れば…」精神の地獄のハイブリッドだ。スポーティーな内輪ノリの馬鹿騒ぎには見られない独特の後ろ暗さが通奏低音として聴こえてくるようなところがある。パフォーマンスっぽいというか、誰かに見られていないと達することができない感じというか。「ヘイ・ユー、今からオージー・パーティーをやるんだけど、その様子を見ててくれるかい?見られてると思うとたまらなく興奮するんだ!」みたいな感じか。満員電車で彼女のことを守ろうとする男のスタンドプレーに巻き込まれてイライラする感覚に近いかもしれない。
「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損」なんて標語があるが、どうも”OBEY”だとか”CONFORM”と言っているように聞こえてしまう。こんなのは個人の受け取り方でしかないのだが、それでもやはり「どうよ・どや飲み会」は各人のユーモアのあり方を矯正する非常にポリティカルなイベントだとしか思えない。もっと言えばユーモアのネットワークビジネスないしマルチ商法だ。既得権益を守ろうとすることは別に当たり前の話ではあるが、自ら進んでその枠組に組み込まれる必要もなかろう。少しはおこぼれにあずかれるかもしれないが。
自惚れや自画自賛自体は別に悪いものじゃないし、時と場合によってむしろ良いものとさえ思う。しかし、「どうよ・どや」から滲み出るあの嫌らしさは一体何なのか。「どうよ・どや」よりもむしろ「俺ら最高だよな」という目配せに反吐が出るのだろうか。「どうよ?」「最高!」というやりとりに予定調和を感じてうんざりしまうのか。「最高っしょ!」と聞かれたら「別に…」だとか「特に無いです」と返すのが人情というものではないのか。それとも「俺ら」という人称のパブリックとパーソナルの領域がグダグダなところに気持ち悪さを感じるのか。やはり満員電車で彼女のことを守ろうとする男のパフォーマンスに対する苛立ちに一番近いか。中学生の頃、放課後に昇降口を出たところで野郎どもとたむろして、女子が通る度に「おい、おまえマジふざけんなよ!」などと仲間同士でふざけてるふりをしたり、後ろ向きに自転車に乗って注目を引こうとしていた日々を思い出して恥ずかしくなってしまうからだろうか。年齢が30前後だとまだ中学高校といった空間を再現したがる人は多いが自分には無理だ。枕の臭いを嗅ぐ度に我に返らざるを得ない。
ベッキーは5人以上の食事会には参加しないそうだ。たしかに5人以上の飲み会などは参加しても、弾丸状の大声が何発も頭蓋骨を貫通していき最終的に頭が穴だらけになるだけというパターンが多い。頭部がKornの”Freak On a Leash”のPVみたいな状態になってしまう。頭の中にKornのメンバーがいたりしたら少しは心強いのだが。
5という数字はたしかに分水嶺といえよう。20歳以上の人間が5人以上集まって街中でウロウロしているのを見ると、申し訳ない話だが、反射的に「あ、田舎者だ」と思ってしまう。これは別に出身地や住んでる場所のことを言っているわけではない、念のため。松屋の4人がけのテーブル席に大学1年と思しき女子6人組が無理矢理座って話し込んでいるのを見たときは思わず「わちゃあ」と嘆かずにはいられなかった。それと、これは偏見でしかないのだが、そういう5人以上の女子の集団には必ず小ぶりの麦わら帽みたいなのを被っている人がいて、その人はその集団のイニシアティブを取りがちだという気がする。あとデニムのジャケット。
「淀みに嵌って魂が腐るから居心地の良い所に長居していてはダメだ」といった考え方があるとは既に書いた。居心地という場所ないし環境について我ながらこれは酷いと思いつつも他罰的かつ独善的な物言いでネチネチネチネチずっと書いてきたが、どちらかというと場所や環境よりも時間という要因が重要なのではないかということに今更ながら感づいてしまった。魂を淀ませたり腐らせたりするのは環境もあるだろうがむしろ時間の経過であろう。
居酒屋で管を巻いて愚痴をこぼしながらも、結局問題を棚上げにして、日々の繰り返しの作業に戻っていくというようなことはよく見られる光景だ。住めば都ではないが、ゴチャゴチャ文句を言いながらも惰性で物事を続けてしまいがちなのも、やはりそこに慣れというある種の居心地の良さがあるからだろう。いくら淀みが凄まじい腐臭を放っていようと一度その臭いに馴れてしまえば、むしろ心を落ち着かせてくれる馴染みのある臭いとなる可能性すらある。
だから、居心地が良かろうと悪かろうと時間の過ごし方次第では淀みに嵌るように罠が設置されているということだ。
もし脱出への一縷の望みがあったとしても、その望みが打ち砕かれたときのことを考えると、足が竦んでしまう。ゾンビ映画でよく観られる、やっとの思いでたどり着いた島に上陸してみると、木の茂みからゾンビの一群が飛び出してくる、といったエンディングのような絶望が待っているのだとしたら、可能性を可能性のままにして取っておきたいという気持ちもどこかで芽生える。「やらない後悔よりやって後悔」という考え方が共感を呼ぶことがあるが、個人的には、可能性を純粋培養して妄想逞しく無時間的に暮らしていたほうが心の平静を保っていられるような気がする。「もしかしてあの子、俺に気があるのでは?」という予感と高揚を真空状態で保存しておきたいというようなものだ。何か積極的な行動を起こすと決まって裏目に出るというほぼ思い込みでしかない経験則も影響していることだろう。同時にここで思い出してしまうのは「卒業」のラストシーンでダスティン・ホフマンが見せるあの厳しい眼差し。彼が見てしまったものを想像すると気が遠くなる。
他人事であれば、淀みを抜け出して新しいことを始めようとする人を見ると素直に応援したくなるし、羨ましさすら感じる。それが誰からも「もったいないね」だとか「身の程知らずだね」だなんて言われてしまうような状況であろうと。しかしそれが自分のこととなれば、その判断はなかなかに難しいことである。
淀みから抜け出そうとしたときに、いきなり「ニューヨークに渡ってビッグになるんだ」みたいな解決策を想像しがちであるが、そんな突飛な取り組み方をしたってどうしようもない。今の自分の心象風景が「真冬のプール」なのでプールに喩えてみるが、淀みから抜け出すためには、プール開きの前に行われるプール掃除のように、枯れ葉を掬って、雑草を毟って、溜まった雨水を抜いて、デッキブラシで苔を落として、といった具合に、プール全体を自分の手に負えるサイズに分節して、それをひとつひとつ地道に綺麗していくほかない。たとえそこに少しの希望すら見い出せなかったとしても。
ノトリイアス・ビー・エル・ジー『不明なアーティスト』を振り返る
先日、高円寺の円盤で行われた新間さんプレゼンツ「不明なアーティスト」がとても楽しかった。
初のソロでのライブだったわけだが、内容についてはあの場所にいた人だけが知っていれば良し!
今回ご一緒させていただいた池田若菜さんのライブはもちろん素敵でしたよ。内藤彩さんがサポートで参加。心の襞をそっと撫でるような木管楽器の響き、ずっと聴いていたいものですね。あの内容の音源を絶対作ってほしい。家でも聴きたい!
その後のトークも在りし日の部室を思い出すものでとても楽しかった。新間さんと、聞き手の柴崎さんは学生時代のサークルの先輩なのです。本当にあっという間に終わってしまったので、もっとやっていたかった。トータルで8時間ぐらいやりたかった。でもそんなことをしてしまったらお客さんとしてはたまったものではないだろう。
トーク中に若菜さんがレコメン系をレコメンドしたことから、「レコメン女子」というワードが生まれ、さらに「レコメン女子はモテない」という切ない結論に至って笑ってしまった。でも、レコメン周辺の、スラップ・ハッピーとかZNRとかアクサク・マブールとかけっこう乙女っぽいとこがあると思う。PCOと一緒に聴けるというか。まぁモテるかモテないかは置いておいて。「スラップ・ハッピーより断然アート・ベアーズのほうが好き!」って人がいたらそれはそれでかっこいい。
レコメンといえば、先日Crammed Discsのツイートで存在を知ったAquasergeというバンドがとても良かった。フランスのバンドで、読み方に自信がないが、カタカナ表記だと「アクワァセウジュ」といったところでしょうか。フランス語の発音について何も知らないのでそれっぽく読んでみただけです。もっと素直に「アクアセルジュ」のほうがきっとベター。
それで、彼らのアルバムがBandcampで配信されていたので早速購入してみた。A l’amitiéというアルバムと、Tout arriveという3曲入りのミニ・アルバム。Bandcampで初めて買い物したのだけど、さすがに「これこそがインターネットだ!」という頭の悪い感想を抱きましたね。だって「腹減った。飯でも食うかな」みたいな情報が跋扈しているのを目の当たりにすると「何じゃあ?」って思うじゃない。
それはさておき、彼らの音楽は、レコメン系というかチェンバー・ロック的な要素が強く、イタリアのピッキオ・ダル・ポッツォやアメリカのマフィンズの系譜に位置づけすることもできよう。思わずトン・ゼーを連想せずにはいられない、良い塩梅に褪色した極彩色の、粒子の粗い映像のようなムードもあったり、ミニ・アルバムに収録された曲ではトロ・イ・モアっぽいことやっていたりと、まさに文句のつけようがないタイプど真ん中の女性と出会ってしまいむしろ困惑してまうといった状態です。
ちなみに、中心メンバーの3人はそれぞれ、ステレオ・ラブ、テーム・インパラ、メロディーズ・エコー・チャンバーのサポートをしていたりするとのこと。後者二つの、ピッチフォークなどのメディアから評価されてそうなものについては、疎いのでどういうものなのかよくわかっていない。
他にもエイプリル・マーチとコラボしたアルバムもあるそうだ。後でダウンロードする予定。エイプリル・マーチといえば、タランティーノの「デス・プルーフ」のエンディング・テーマとしてもお馴染み、ゲンズブールのペンによるフランス・ギャルの「娘たちにかまわないで」のカバー。この曲はハネムーン・キラーズもカバーしている。これぞまさにフレンチ・コネクション。
Aquasergeは今年9月にCrammed DiscsからEPをリリースするそうだ。つい先日新曲のMVがアップされていたが、これがまた良くて良くて。チェンバー・ロック的な一面を保ちつつも、マルク・オランデルにリスペクトを捧げるトランスワールド感覚を携えたアヴァン・ポップっていうのですか。そう言ってしまうと途端に陳腐になってしまうけど。歌に切なさもあってとても良いですよ。EPではシャソールのカバーも収録されるとのことで、楽しみ。
ここで話を「不明なアーティスト」に戻したいと思います。
その日、トークの流れでこのブログについても言及していただいた。ブログのタイトルについて細かすぎて伝わりにくいところがあるようなので改めて説明したいと思う。
まずこのブログのタイトルは”Notoriious B.l.G.”です。”Notorious B.I.G.”ではないです。本物の”Notorious B.I.G.”とどこが違うのかというと、”Notorious”に”i”が足されているところと、大文字の”I”が小文字の”l”になっているところだ。”i”が一つ多いのは私が”torii”だから。”I”が”l”になっているのは”Blog”を略して”B.l.G.”としているから。読み方としては、「ノトリイアス・ビー・エル・ジー」が正解。わかりにくいダジャレでスミマセン…
ダジャレといえば、見りゃわかるんだけど、アイコンやこのブログのヘッダー画像もAutobahnのジャケと「鳥居と真っすぐな道」をかけたもので、「上手いね、こりゃどうも」と言わずにはいられないダジャレとなっております。もじりばかりやってますが、ええ。
再び「不明」の話に戻ります。
トーク中にかけた曲ですが、個人的に既出のものが多いので詳細は割愛します。キーワードとしては、「リズムボックス」「ブラコン」「パラダイス・ガラージ」「コンパス・ポイント・スタジオ」「アフロ・ファンク」ってとこでしょうか。改めて思ったのは「アップ・トゥ・デート」という尺度で自分の趣味をマッピングしても別におかしなところにはいないというか、むしろ真っ当も真っ当だということ。それにしては、何というか、こう、現実に対する手応えみたいなものが一切感じられず、なんだかなぁという想いをさらに強くした次第であります。でもそういうものに色気を出してうまくいったことなど今まで一度もなかったので、爽やかにネグレクトしていこうと思う。これでお互いさま。もはや両思いと言っても良いのではなかろうか。やるじゃん!ヒューヒュー!
鳥ちゃんの「凛として-BOON」
基本的に何をしても暖簾に腕押しという感覚が抜けず、その結果アパシーのような状態になりがちだが、これは「期待は失望の母である」いうナイアガラ語録の通り、何かしら期待するところがあるがためにこのように心が感じてしまうに違いない。いっそ自分のしたこと関わったことに対して、手を離れた瞬間から、ポルターガイストだとかキャトル・ミューティレーションのような主体が判然としない現象のようなものだと考えてしまえば少しは気が楽になることだろう。
それをさらに発展させて、自分のことを透明人間ないし幽霊だと思って暮らしてみるのも良いかもしれない。しかし、それはやり過ぎというもので、他人からしてみれば強い自己愛の裏返しであることがありありと見て取れてとても気持ちが悪いはずである。仮にそのような心づもりであっても他人には言わないのが吉。しかし、自己愛の強い人間に対する世間からの揶揄がある一方で、そういう歯の浮くようなセリフを平然と言ってのける人物が案外スムーズに出世したり人気者になったりモテたりするものだ。だからここはあえて高らかに透明人間宣言をしてみるのも悪くはないだろう。素っ裸になって「ボクは透明人間だぞー!」と叫びながら街中を駆けまわってみたら意外に好評を博すかもしれない。もちろん「嘘をいっては困ります」という指摘もあるだろうが、そんなのはまだ可愛い方で、白字で大きく”N”と書かれたリュックを背負った小学生に「狂い方が凡庸」と一刀両断されて興醒め、なんていう結果を予想することもできる……ポップなことをしようとすることは誠に難儀なことである。地獄の沙汰もキャラ次第なんていう身も蓋もないことわざもあります。
* * *
小学生の頃、友達の妹に散々おだてられた後に、「本当だ。褒められると鼻の穴が広がるってお兄ちゃんが言ってた」とからかわれてとても恥ずかしい思いをした。爾来、人から褒められたりすると鼻の穴が広がっていないか意識してしまうようになった。
顔面に端ない笑みを浮かべた人物がこちらの着ている服をまじまじと見つめて「そういう服ってどこで買うの?」と厭味を言ってきたときのことを反芻しながら、大根や豆腐に針をびっしり刺しているときなど、小鼻あたりが強張ってピキピキ動いているのがわかる。
これら少数の例に鑑みて、自尊心のツボは小鼻にあるのでは、と考えた。鼻は顔のパーツのうち、視界に入れることができる唯一の部分だと指摘する人もいる。そこに自意識が集まってきたって何ら不思議ではない。
そこで、ひとまず人差し指で小鼻付近を揉んだり押したりして刺激を与えてみたところ、まあまあ心地が良い。自尊心を傷つけられたときや、反対にちょっと自惚れてみたいときにやってみたら良いと思います。効果があるのかないのか知らないが。
ある友人が「表情は感情に先立つ」みたいなことを言っていた。例えば、何はなくとも口角をあげていると自ずと楽しい気分になってくるということである。ちょっと試してみてよというので、実際にやってみる。三十がらみの男が二人して口角をあげながら向かい合っている図は、あまり気持ちの良いものではなかろうが、少なからず効果はあったように思う。それが単なる思い込みであろうと。
小鼻にしても、人から褒められたときの鼻の穴の形を思い出してそれを再現すれば、人から賞賛を得たような気持ちに浸れるのではなかろうか。自尊心が傷つけられたときや、反対にちょっと自惚れてみたいときにやってみたら良いと思います。効果があるのかないのか知らないが。
ある日、帰り道に立ち食い蕎麦屋に寄って、今日は一杯飲んじゃおうか、なんて言ってビールを一杯飲んで、蕎麦も頂いて腹八分目。ほろ酔い気分の上機嫌で帰宅して、ハミングなどをしながら何の気なしに鏡に目をやると、無表情の自分が映っていたので思わずビックリ。自分としてはもっとにこやかな顔をしているつもりだったが、無表情というものが顔にぺたりと張り付いているようで異様だった。まさにオーネット・コールマンのDancing In Your Headのジャケを天地逆さにしたような状態で、表情と気分の乖離に非常にショックを受けたのだった。念の為にショックを受けた顔も鏡で確認したところ、やはりこれもまた無表情で、もはや笑うしかなかった。厳密にいえば笑っていないのだが…
* * *
無印良品で買った自転車を乗り回して9年程経過した。チェーンが経年変化によりだるんだるんに弛んでおり、上り坂を登っているときや急いでいるときなどに高い負荷をかけると簡単に外れてしまう。この自転車を運転しようと思ったらチェーンが外れないように配慮して慎重にペダルを漕がねばなるまい。
現在使用しているスマホにしても2012年に購入したものだからすこぶる動作が遅く、外出中に急いで調べ物をしなくてはいけないときなど毎回イライラしてしまっていたが、最近はもうそういうものだから仕方がないとあきらめて、負荷のかかるような使い方をしないようにしている。
仮に機能が充分に果たされていなかったとしても、人間が道具の都合に合わせるということがあっても良いのかもしれない。そんなことを思った。いくら相手が我々の作り出した道具といえども何でもかんでも人間の思い通りにいくと思ったら大間違いだ。そんなことで毎度毎度ストレスを貯めているようでは長生きできないだろう。
などと言っておけば何となく収まりが良いのかもしれないが、有効に使われるはずだったエネルギーが穴の空いたバケツから駄々漏れになっていると考えるとむかっ腹が立って仕方がない。所詮道具は道具。使うのはあくまで人間のほうであって、その主従関係ははっきりとさせなくてはならない。
かの村上”ポンタ”秀一はテレホンショッキングに出演した際に、設置されたドラムセットに蹴りを入れて「ドラムはネ、こうやって言うことを聞かせるんスよ」と言って演奏を始めた。
運転免許合宿の最中、頭をパンチパーマにしているクールなオバチャン教官に当ったときに、おっかなびっくりアクセルを踏んでいたら普段の冷静でドスの利いた口調からは想像できない明るい調子で「ぶっ飛ばせー!車はぶっ飛ばすもんだー!」と言っていた。
かようにして道具どもに一体誰がボスなのかということをわからせてやらなくてはなるまい。人間が道具に合わせてペースを落とす必要などまるでなし。使えない道具はコンクリートの壁などに力一杯叩きつけて今すぐ買い替えてしまおう!
さて、エネルギー駄々漏れ問題は相手が道具であればある程度対処のしようがあるが、相手が人間の場合はどうだろう。一緒に働いている人がいちいち右クリックでコピー&ペーストをしているのに気づいてしまったときなどどうしますか。イライラしますか。
また、集団で一丸となり、何かに取り組まなくてはいけないような感じの雰囲気が醸成されつつある気配がみられるときなど、いかにして各々のエネルギーを効率良く伝達し、目標を達成していくべきか。これについては話がややこしくなりそうなので何も言わないのが吉だろう。
ひとつだけ言えることは、集団における各人のエネルギーの投入についても「ロー出しハイ受け」がより好ましく最も効率の良い方法ということだ。つまり個人が投入すべきやる気や情熱にも適量というものがあるということである。そして情熱のはけ口をどこに見定めるかということも肝要だといえよう。何でもかんでもやたらめったら情熱を注ぎこめば良いというものではない。(山王戦でゴリが回想するビターなエピソードを思い出してみよう。そして、期待は失望の…何だっけ?)
文化祭などの行事になると、気分の高揚から無闇矢鱈と張り切りって余計な仕事ばかり増やす人がいる。なんとエネルギー効率の悪いことか。やはりその時々の環境に見合った熱量を注がなくてはならない。だから場合によっては前向きな気持ちを胸に抱いたまま何もしないで横になっているのが最も効率的なんてこともある。むしろ、いついかなる状況であろうと何もしないで横になっていることが最良の選択であることを我々は経験から学んでいる。
なんて言っておきながら、大人しく横になって寝ておけばいいものを、ここ数日間は「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」などとブツブツ唱えながら、夜なべしてミックステープを作成しています。”Dancing Crab”に向けて。我ながら物事の優先順位がおかしいと思いますが。最近は自分のことを例えるなら紳士服店の一角を借りておはぎを売ろうとしている人ではないかと考えるようになりました。もう良い歳なので「私はクリープ。私はウィアード」とは思いませんが、”What the hell am I doing here?”と思うことはしばしば。ひとまず経済の仕組みについて一から勉強したほうが良さそうです。
ライブは日付変わって本日5月13日。場所は渋谷NEST。どうぞよしなに。
https://www.youtube.com/watch?v=xdK8Hq7RmJ0
WordPress4.5に更新したら不具合が発生!原因はHeadSpace2?

WordPress4.5に更新してから編集画面がおかしい…
当サイトではないのですが、私が管理に携わっているWPを使用したサイトをWordPress4.5に更新したところ、編集画面に色々と不具合が発生しました。具体的には以下の様なトラブルです。
- 「メディアを追加」をクリックしても効かない。
- ビジュアルエディタとテキストエディタの切り替えができない
- テキストエディタからHTMLタグを挿入する「クイックタグ」が消える
その他にもあったのかもしれませんが、私が気がついたのが上記のものです。
プラグインをひとつずつ検証してみると…
ひとまずインストール済みのプラグインをひとつずつ停止して編集画面に変化があるか見てみることにしました。そうした結果、Headspace2を停止するとテキストエディタが正常に働くことが判明しました。不具合の原因はHeadspace2にありそうです。
Headspace2の不具合を修正する
Headspace2は主にページごとのディスクリプション(description)の記述に使用していました。記述したものは結構な数のページに及びます。手っ取り早くHeadspace2を停止にしてしまうことも考えましたが、できれば継続して使用したい。そこで検索してみると早速解決策を書いてくれているサイトがありました。
WordPress4.5でHeadSpace2に不具合が!|Mac使いの備忘録iRec
こちらのサイトを参考に実際に修正してみました。headspace.jsを編集するところまでは良かったのですが、page-settings-edit.phpというファイルの場所がわからず、途中であきらめてしまいました。
英語のサイトですがワードプレスのフォーラムで、同様のトラブルが話題になっており、解決策も書き込まれていたのでこちらも試してみることにしました。
WordPress › Support » Problem with WP 4.5 | WordPress.org
jacobさんが解決策を書き込んでくれています。以下、引用です。
If your problem is related with headspace, then go to:
wp-content/plugins/headspace2/js/headspace.js
Line 26:
Change: $( ‘a[href=#toggle]’ ).click( function(){
With: $( ‘a[href=”#toggle”]’ ).click( function(){
Line 61:
Change: $( ‘a[href=#toggle]’ ).click( function(){
With: $( ‘a[href=”#toggle”]’ ).click( function(){
以上です。こちらはたったの2行書き換えるだけで良いようです。早速試してみたのですが、特に変化はありませんでした。別の解決方法を探さなくていけません。
jQueryのバージョンをダウングレードするという解決方法もあるそうですが、こちらは試していません。
WordPress4.5でHeadSpace2を使うとエディタに不具合が!|CREATE RECORD
Yoast SEOを代替プラグインとして使用する
先述のとは別の同様のトラブルに関するWordPress.orgのフォーラムを見ていたところ、Yoast SEOというプラグインであれば、Headspace2の設定及びデータをインポートすることが可能であることがわかりました。そこでYoast SEOを代替プラグインとして使用することにしました。
他のSEOプラグインからデータをYoast SEOへインポートする際は、画面左側メニューの「SEO」から「ツール」画面へ移って、さらに「インポート・エクスポート」へ移動し、「他のSEOプラグインからインポートする」と書かれたタブを選択します。

Headspace2にチェックを入れて、水色の「インポート」をクリックすればインポートが完了します。
インポートした後、Headspace2を停止にしました。これでひとまずの解決にはなりました。
ひとまずは解決したものの…
Yoast SEOについてはまだ未知数ですが、いささか見た目のシンプルさに欠けるところがあり、できればHeadspace2を使っていきたいところではあります。他に手段はないのかもう少し探っていきたいと思います。
※2016年4月25日追記
HeadSpace2のデータ移行はAll in One SEOでも可能だそうで、こちらを使用することにしました。やはりYoast SEOは出しゃばりというか、目立ちたがりというか、奥ゆかしさのないプラグインなので、おさらばしたいと思います。
鳥ちゃんの「とりいそぎご報告!」
幸いなことに朝の通勤ラッシュというものにさほど縁のない生活を送ってきたが、ある時期、半年程、通勤ラッシュ時に電車に乗らなくてはならないことがあり、本当に辛かった。毎日が絶望的な気分だった。とはいうものの、伝え聞くところによれば関東には本当に地獄のような通勤ラッシュがあり、それに比べたら私が利用していた路線の混雑などまだ可愛い方だったのではないかと思われるが、そんなことを言っても辛いものはどうしたって辛いものだし、俺の体験のほうがよっぽど辛いなどと言い出す人を見越してまずは控えめに出て様子を窺うなんていう回りくどいことをわざわざする必要もなく、辛いことに対してはやはり声を大にして辛いと言っていかねばならない。なぜなら満員電車とは忍耐を美徳であると考える心の産物に他ならないのだから…なんていう考え方もあるかもしれないが、実際のところはよくわからない。そういうものなのだから仕方がないという虚ろな気分が支配的で、絶対改善してやるんだぞ!という気概を持つ者は誰一人としていないことだけは確かだ。
朝の移動というと乗車してからの時間も当然辛いが、乗るまでの間も相当に辛くかなり疲弊してしまう。最寄り駅の改札は線路を挟んだ向こう側にあるために、一度踏切を渡らなければいけない。その踏切はいわゆる開かずの踏切で、その酷さは夕方のニュースでも取り上げられるほどだ。
踏切には電車が通過することを知らせる赤いランプが設置されている。ランプは矢印の形になっており、上りと下り、それぞれの進行方向を示している。通勤の時間帯などはこれが常時点灯した状態だ。ランプの点灯が片方だけになり、後一本電車が通過すれば遂に踏切が開くぞと期待させておいて、電車が通過している最中に再びランプが点いたりすると周りから嘆息が聞こえてくる。ブツブツと文句を言う人もいる。頃合いを見計らって遮断機を避けて横断してしまう人もいる。踏切に開閉に律儀に付き合っていてはイライラが募るばかりでなく遅刻もしてしまう。しかし開かずの踏切を勘定に入れてその分早く起きるなど言語道断である。
もし自分が「ハンガー・ゲーム」や「ダイバージェント」、「メイズランナー」などのヤング・アダルト小説を原作とするディストピアが舞台の映画に出てくるような支配階級の実力者だったら、国民を無理矢理ぞれぞれの生活リズムによって「朝型」「昼型」「夜型」「深夜型」の4種類に分けて、通勤の時間帯を分散させることで交通の混雑を解消させたい。
通勤ラッシュに慣れないうちはとにかく人の多さにショックを受けて、毎回疲弊しきっていたが、3日もすれば脱力の勘所みたいなものが身について、それほど精神をえぐられることもなくなった。改札を出てしまえばそこで終わりで、もちろん辛いことには変わりないし二度と乗るものかとは思うのだが、一日中尾を引くような疲労感を覚えることはない。
受けるストレスの度合いでいえば通勤ラッシュよりも帰宅ラッシュの時間帯のほうが大きいように思う。通勤ラッシュに慣れた乗客の間では痛み分けの妥協点が共有できているというか、皆が腹を括っているから過密ということに我慢さえしていれば物事がスムーズに進むことも多い。車内は殺気立っているがその分マナーの悪い乗客などは淘汰される傾向にあるように感じる。帰宅ラッシュは通勤ラッシュよりも人が少ないものの、それでもやはり混雑しており、さらに他人と密着するほどではない微妙な混み具合からパーソナル・スペースの調整がうまく行かず周囲の乗客とスペースを巡って心理的な小競り合いが起きがちで、それが何よりのストレスとなる。それに加え、パンパンに膨れあがったリュックサックを背負ったまま車両に乗り込んだうえにそれを何度もぶつけてくるタフな学生風の男や、ドア付近に立って電車から降りようとする人の通せんぼする輩や、つり革に掴まらずブレーキとともによろけて体を人にぶつけたうえに謝りもせず同行の者と顔を見合わせてヘラヘラしているハイティーンの集団など、マナーに対する姿勢が甘めの者も多くこれもストレスの種だ。
あるときもう本当にうんざりなんだよ!という気持ちで、荒んだ空気が充満した帰宅ラッシュの電車に乗っていると、説明口調で何か言っている男性がいたので、下衆な気持ちからイヤホンを外して男性の言っていることを聞いてみると、どうやらブレーキが掛かったタイミングでよろけてしまった人に体当たりをされたらしく、そのことに対して周りの乗客にも聞こえるように文句を言っているようだった。
「あのー、よろけないでください。皆我慢してよろけないようにしているんですよ。自分だけは許されるなんて思わないでください。皆さんもそう思いますよね?誰も言わないからこうやって私が言っているんですよ。いいですか。お願いしますよ。」
水面に小石を放るとできる波紋のように男性の周りにいた人がすうっと引いていくのが感じられた。車内を満たす荒んだ空気が一気にクールダウンしていく様が肌でわかった。「男性対その他の乗客」という構図の導入によりバラバラだった乗客の気持ちがひとつになったようなところもあり、マナー向上を目的として派遣された鉄道会社の差金かと思うほど見事な空気の変わり方であった。
先の男性の行動から思い出されるのは、バンド活動に従事していると思しき若者たちがリハスタのロビーで、彼らが観に行く予定だという某外タレの来日公演に前座として出演する日本人若手バンドに対し「全然いらねー。絶対観ない。バースペースで時間潰すわ」なんて言っているのを聞いてしまったり、新宿のFlags付近で読モ風の女性が同行の者に「わたし人混み嫌いなんだよねぇ」と言っているのを聞いてしまったり、六本木を歩いているときに三十がらみの女性二人組が「学生さんって本当イタイよね」などと話しているのを聞いてしまった時の気まずさのようなものだ。
また、怪奇もののショートショートにありがちな、人間関係に悩んでいる主人公が「あいつらなんて消えちまえば良いんだ!」と叫んだら謎の人物による怪しい力によって本当にその通りにされてしまい、罪悪感から精神的に追い込まれていくような話に近いものを感じた。
自分がぼんやりと考えていたようなことでもその言葉が他人の口から実際に出てくると、なんだかなぁという気分になってしまい、決してその通りよくぞ言ってくれたという気持ちにはならない。
男性は続けてこう言った。
「あともうひとつ。降りてすぐ歩きながらスマホを見るのはやめてくださいね。これ非常に危険ですからね。そう思いませんか?誰も言わないので代わりに私が言うんですよ。お願いしますね」
自分の言い分が通らなかったり物事が思い通りにいかず、こめかみに青筋を立てて怒りにうち震えているような状況では、我を見失いがちであるが、一度他人が自分と同じような異議申し立てをしているところを想像してみると少しは冷静になれるのではなかろうか。その際にあまり好印象を抱いていない人物が言っているところを想像するのがより効果的だと思われる。「ふと我に返る」というような状態にもっていくことができるだろう。しかしこの思考のプロセスが習慣化してしまうとアイデンティティ・クライシスに陥ってしまいそうな気もする。ただ思考に別の回路を設けておくことは考えが袋小路に入り込まないようにする手段の一つになると思われる。
人としての器または度量と呼ばれるようなものが御猪口を裏返したときのくぼみ程度しかないので、他人のちょっとした発言などに腸が煮えくり返る思いをすることもままあるが、そんなときは発言した者が今際の際になって家族と感謝の言葉を掛け合っているところに突然現れて「でもあなた、私にこんなことを言ったよね」と指摘するところを想像してみる。その後、家族の者に「なんなんですか!」と糾弾される展開などを考えると、ごちゃごちゃ言われるのも面倒だなという気持ちになり、昂ぶった感情も有耶無耶になって、とりあえず落ち着きを取り戻すことができる。
ベル・ビヴ・備忘録
某日。さる対談(人数的に座談会?もしくは合同インタビュー?)で先輩ミュージシャンとお話をする機会を得る。思えば対談は初めてのこと。何を話したら良いものかと考えていたものの、始まってしまえばまさにおんぶに抱っこ状態で、たくさんお話していただいてこちらはひたすら恐縮するばかりだった。
自分が読んでおもしろいと感じる対談やインタビューの記事とはどういうものだろうと改めて考えてみると、何の遠慮もなしに、いかにもそれが自然な振る舞いであるかのように固有名詞がひたすら飛び交う具体的な語らいであるとの結論に落ち着いた。抽象的でモヤっとした精神論や、時事問題に対するボンヤリとした意見、爆笑おとぼけエピソード等はそれはそれで味があるのかもしれないが、そういったものよりも個人的な嗜好としては具体的な技術論を読んでいるほうが断然おもしろい。例えその内容が全く理解できなくとも。さらに言えば一般的でない固有名詞に関しても全く説明がなされないまま先に進んでいってしまうものがより好ましい。
このような気質は、小学校の高学年ぐらいで日テレのテロップを親切だと思うか余計なお世話だと思うかというところではっきりしてくることだといえようが、今そんなことはどうでもよろしい。どうでも良いことついでに言うと、歌番組の歌詞テロップはなくて良いと思う。カラオケに来て他人の歌を聴いているような気分になるから、というしょうもない理由ばかりでなく、文字が出ているとどうしても目で追ってしまい音楽を聴いている気にならないからという理由もあるが、こんないかにも亜インテリでござい!みたいなことを言っても得することなど何もないからこれ以上言うのは止そうと思う。したがって歌詞カードについては何も言うまい。
一応の役割として音楽担当(嵐でいうところのラップ担当)ということになっているので、取材などでも「音楽的な話題」を振られることが多い(取材自体はほぼなし)。そもそもの話、例え色々な事情があろうと、我々が従事しているのは他でもない「音楽そのもの」なのだから、殊更「音楽的」などと強調する必要があるのかという疑問もあることにはあるのだが、そういうことになっているのだから今更ごちゃごちゃ言ったところでどうにもならない。
むしろ、細野晴臣の「Endless Talking」、レココレ誌上での大瀧詠一のインタビュー、ポール・ゾロによる複数のソングライターへのインタビュー(この面子を見よ!—ヴァン・ダイク・パークス、キャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、スザンヌ・ヴェガ、トッド・ラングレン、ニール・ヤング、バート・バカラック&ハル・デイヴィッド、ハリー・ニルソン、ピート・シーガー、ウィリー・ディクソン、ボブ・ディラン、ブライアン・ウィルソン、フランク・ザッパ、ポール・サイモン、マドンナ、ヨーコ・オノ、ランディ・ニューマン、レナード・コーエン、ローラ・ニーロ、ロビー・ロバートソン)をまとめた「INSPIRATION」などを読んで、音楽に従事する者の受け答え斯くあるべしと考えてしまうこちらの認識がズレているのだろう。
とにかく忘れっぽく咄嗟に固有名詞が出てこないので、終わってから「この名前を出すんだったらこっちも出すべきだった!」といつも後悔してしまう。加えてその場の空気次第では口から出た固有名詞が寒々しく響くこともあり(テレホンショッキングに出演した際にタモリに向かって機械の配線に凝っていると話してBREEZEが心の中を通り抜けるような感触を我々にもたらした欧州サッカーにも造詣が深いことでお馴染みのあの女優のように)、それに耐えて固有名詞を唱え続けるほど強い心臓を持ち合わせていないために、毒にも薬にもならないことを言ってお茶を濁し、後になって歯がゆい思いをすることもある。それを情けないと感じつつも同時にそのような場で堂々と振る舞うところが全く想像できないし、むしろそういう立ち振る舞いに対してどうしてもミクスドフィーリングを抱いてしまう(「6年目の決意と覚悟」みたいな見出しは重すぎて持ち上げられる気がしない)。
誰かに対して意見を主張するときの作法のようなものが根本的なところで身についていないような気もする。こんなことを言っていては一生出世できないだろうが、そういうものなのだからどうすることもできないと諦める以外になす術もなし。うだつが上がらないとはまさにこういうことをいうのだろう。サングラスをかけることに一瞬でも逡巡するようでは出世できないというのがもっぱらの定説だ。このような人間はやはり折にふれて冷蔵庫のドアを開いてボトルの水飲んで誓いをたてていくよりほかない。
今回の対談では有り難いことに素敵な固有名詞を投げかけていただいたのできちんとキャッチして投げ返すことができた。とにかく音楽の話ができて良かった。
その後、串カツ田中に移動して飲み。楽しさに任せて飲んでいたら急に気持ち悪くなり、そろそろお開きという段になって血の気がひいて冷や汗タラタラ喉元コポコポ足元フラフラ状態に。夕方に食べたつけ麺大盛りに消化不良を起こしたか。
終電間際だったが新宿のTSUTAYAにDVDを返しにいかなくてはならず、さらに車内で気持ちの悪さのピークを迎えたことから仕方なく手前の代々木で降りて、胃袋と喉元をコポコポ言わせながらTSUTAYAまで辿り着きDVDを返却した後、小一時間歩いてなんとか帰宅。薄着で出かけてしまったせいでとにかく寒くとても辛かった。翌日は案の定二日酔いで一日の大半を憂鬱な気持ちで過ごした。
某日。オーストラリアのバンド、My Discoとライブでご一緒する。リミエキ、Phewさんと共に。My Discoの音はとても大きいのだけれども、分離が良いというか、すっきりとした音になっており思わず感服。だいたいライブハウスで大きい音を出そうとすると全体で聴いた時に拡声器の音みたいになりがちなのだがそういう音ではなかった。
昔アリトさんが「フガジの中音はスカスカらしい」と言っていたのを思い出した。確認していないので下手なことを言っても恥をかくだけだがMy Discoの中音も爆音というわけでもなさそうだ。加えて音のすみ分けを考慮したアレンジの妙もきっとあることだろう。
バンドというものは普段我々が考えているよりも小さい音で演奏しても良いものであるようにここ最近感じている。なぜならライブハウスにはスピーカーが設置されているから。こめかみ辺りを蛍光色のなわとびで叩かれているような音は正直辛いだけだ。叩いているほうはさぞ愉快だろうが…本当は鼻の奥がスッキリするような音だけを聴いて暮らしていたい。これは音量だけの問題ではない。
それにしてもMy discoのあの殺伐さは何だろう。あれほどまでに荒涼とした音楽は聴いたことがない。それでいてどこか茶目っ気もあった。調べてみるとメルボルンの湿度は低いとのこと。
以下、次回のライブです。
4月3日(日)渋谷TSUTAYA O-nest
nest20周年記念公演「トリプルファイヤー×ベルハー」
開場 18:00 / 開演 18:30
前売 2500円 / 当日 3000円
出演 BELLRING少女ハート / トリプルファイヤー
ぴあ(P:292-515)・ローソン(L:74201)・e+
お役立ちライフハック情報の墓場
先ごろ、某水色系SNSにおいて音楽ファンを中心に「私を構成する9枚」というハッシュタグとともに9枚のアルバムジャケットの画像を投稿することがにわかに流行した。アルバムジャケットが複数枚並べられているとそれだけでもう嬉しくなってしまう単純な人間(ディスクガイド大好き!)なので、人の投稿を眺めて楽しんでいた。
特に、自分がリスペクトの念を抱く、音楽活動に携わっていてる人物によるチョイスを見ると、なんだかしみじみとしてしまう。定食屋のおっちゃんが店じまいした後の薄暗い店内で一人で食事しているのを垣間見てしまったときの、あのなんともいえない気持ちが湧いてくる。そんな風に思われるのが癪だと感じる方がいたのならすみません!でも、どうしても「音楽は個人に属するもの」という風にしか思えない自分からしてみると、その人がこれまでに一人で音楽に接してきた時間がフレームに収まって目の前に現れてきたような気がして、くらくらしつつもやはり目を閉じてしみじみと首を縦に振りたくなってまう。
しばらくして「なかったことにしてるけどかなり聴き込んだ9枚」(うろ覚え)というハッシュタグも登場した。このハッシュタグが「本当に音楽が好きな人はむしろこっちを発表するんだろうな」(うろ覚え)というコメントとともに紹介されていて、「本当に音楽が好きな人」という文言に、「?」と思いつつ、タグ付けされた投稿を見てみると、メタルやメロコア、ミクスチャー系、20年ぐらい前のJ-POP、アイドルなどの「いかにも」なジャンルのアルバムが選ばれていた。
これは印象でしかないが、「なかったことにしてるけど〜」の方は「正直さ」が指標になっており、「正直さ」を支えているものは「恥ずかしさ」であるように見え、さらにその「恥ずかしさ」はある程度誰もが共感できるものとして設定されているようだった。また、「ダサさ」と「無為自然」が等号で結ばれることを自明とするようなところもあった。
共感がベースになっている以上当然社会的にならざるを得ない。それに茶々を入れても仕方がないと思うものの、「正直さ」というものは結局他人からの評価でしかないという身も蓋もない事実をまざまざと見せつけられた気がして、ちょっと気が遠くなってしまった。
やはり気になってしまうのは「本当に音楽が好きな人」という言い方。そもそもの話、ものを選ぶということが作為でしかないのだから、その時点でフィクションという要素が含まれるのは当然であって、殊更「本当」だったり「正直さ」、「誠実さ」を気にしなくていけいないのはなぜ?と疑問に感じてしまう。「全ては幻想である!」とまでは言わないにしても(幻想だと思いたけど。ものぐさなので)。むしろ、フィクションだからこそ「真実っぽさ」を押し出していかなくてはいけないのかもしれないが。
こういうのは十代のときの「他人からどう思われるか」という思考がいかに深い爪痕を残すのかという話でもある気がする。最近は他人から「まーた馬鹿が気取ってやんの」と思われてもその通りだし別になんでも良いやと感じるようになってきた。実際に言われたら傷つくし、腹も立つけど…
10年ぐらい前に某サブカル誌を読んでいたら、ある若手ロック・ミュージシャン二人の対談が載っており、片方の「別にマニアの自意識を満たすためにやってるわけじゃない」という発言が見出しになっていて、「イヤなこと言うよなあ」と思った。イヤさがクリティカルすぎて前後の文脈は忘れてしまった。ここで大切なのは見出しを憎んで人を憎まずという気持ち。
この「別にマニアの自意識を満たすためにやってるわけじゃない」という一言はやがてヘルペスのような存在と化し、普段は忘れていても免疫が落ちたりすると再発して思い出してしまうようになった。その度に「ああ、イヤだ、イヤだ」と感じてしまう。特にこの5年間は症状がひどい。言葉の一人歩きが過ぎてこの5年間に感じたイヤさの象徴みたくなってきた。むしろこのイヤさこそが活動の指針を決めているようなところすらある。もはや金言。
「マニアの自意識」という言葉の実体の伴わなさが過剰な意味付けを引き寄せているような気がする。
「マニア」という単語は上から目線の偉そうな奴ぐらいの意味でしかなく(「スノッブ」でも「権威主義」でも代入可能。または「オタク」でも可。「外人」でも「金持ち」でもなんでもOK。ここでは評論家のことを言っているのだろう)、手頃な仮想敵のステレオタイプとして挙げられているだけのような気がするので(子供にとっての人参、ピーマン、グリーンピースのような存在)、その安易さに辟易しながらも拘泥せずにここでは捨て置くとして、問題は自意識のほう。
自意識というものは他人の目にしか映らないということになっており、おまえが何を言っても無駄とでも言いたげな様子で立ちはだかる感じがして恐ろしい。被害妄想の気が強いので、自意識という言葉を聞いただけで冤罪で捕まった気がしてくる。さらに恐ろしいのは、「冤罪とか言っちゃってこのイノセント気取りが。おまえに罪の意識はないのか」という形で思考が続いていくところ。泥沼化は必至。このドミノ倒しはどこかで原罪みたいなものを設定して手打ちにしないことには延々続いていくだろう。そして、原罪を一度背負ってしまったら「だったらおまえも悔い改めろよ」という形で視線を他人にシフトして行かざるを得ず、これもまたある種の地獄である。(macが目の敵にされる主な原因は社名とロゴのせい)
単におまえの被害妄想がひどいだけだろとおっしゃる方もいるかもしれませんが。いや、でも、自意識という言葉が人の口から出てくるときに相手の他の可能性を探るということはまずないから、問答無用な感じがして本当に嫌な言葉だよな、と思う。まさにノー・マーシー。逆に言えば説得力がある言葉ということかもしれないが。少なくともいちいち付き合うのが馬鹿馬鹿しい言葉の一つであるとは言える。
だいたい、やってるほうが「ダサ坊お断り!」と思っていようが「一人でも多くの方に聴いてもらいたいです!」と思っていようが、開かれていようが、閉じていようが、こっちは好きで聴いてんだからそんなことは知ったこっちゃねぇよ!タウン&カントリーじゃあるまいし!としか思わない。
あと関係ないけど、「ポップスの良心」「アメリカン・ロックの良心」といった表現の押し付けがましさも、「んー」という感じ。よっぽど悪を懲らしめたいのだろうな!しかも他人のふんどしで!という感じ。でも意外と商品ポップなどで軽い感じで使われがち。「ポップスの悪意」「アメリカン・ロックの悪心」とかのほうが断然聴いてみたい!と思うけど。
なんかそういうポリティカルなのかどうかわからないけれども「正直さ」「誠実さ」といったコレクトネスの下に、あり方を一本化していくのはどうなのと思う。支流、傍流を無くして全部本流にもっていくというような。水脈が至るところにあってたまに繋がったりするというのが豊かさというものなのでは。結局ナイアガラの受け売り男(エー、エー、毒消しゃいらんかね♪)になってしまうけど、「音楽は個人に属するもの」で、趣味のものであるとしか考えられないので、配慮の正しさ、合意の得られやすさ、流通のしやすさみたいなところで質を測ろうとすることには違和感を覚える。電車の中で化粧するなとか、ご飯を残すやつが許せないといった話と同じディメンションで語られがちだが、音楽がただの日本語でない限りにおいて、音楽には音楽なりの自律性ないし自発性だってあるはず、きっと。
やっぱり音楽はどこか舐められているようなところがあって、文芸やお笑い、ファッションなど他ジャンルのさらにサブジャンルみたいな扱いをよく受けがちである。ミュージシャンの成功とは、小説家として名声を得ることだとか、マルチタレントないしサブカル文化人として様々なメディアで飄々と活躍することである、というふうに考える人は少なくないだろう。「あがり」をそういうところに設定するのはその人の勝手だから別に知ったこっちゃない。のらりくらりやっていたらいつかピエール瀧みたいになれると思っているような人に対しては一生やってなさいよ、と思うだけだ。だって継続は力なりと言うじゃない。
音楽活動に従事する者に、音楽に比べてお笑いがいかに偉いのかということを語られるということが、これまでに何度かあって、その度にガックリとさせられてきた。彼らには芸人さんに対する尊敬とか羨望のまなざしがあって、俺のやってることなんかに比べたら、お笑いのほうが世のため人のためになっている、というようなことが言いたかったのだろうけれど、だからといって音楽を貶めないでも良いじゃないか、と思う。もっと言えば、それはおまえ自身の不甲斐なさにすぎないのではないかと尋ねてみたい欲にかられもするが、実際に口にするのはさすがに憚られる。
従事している人にしたって思い入れがその程度なのだから、況や一般の人をや。まあ、そんなことを言っているのも一部の人ですけどね。とにかく、グッと来る友情エピソードだとか「ロックの名言」だとかそういう話に終始して「音楽そのもの」が語られないっていう状況はとても残念だ。そんなものはただの「日本語」でしかないと思うのだが。「日本語以外のものがあった!」という驚きがあったからこそ、音楽にここまでのめり込んでしまったようなところがある。「ロックの名言」なんぞと同じ地平で扱われることを苦々しく思ってしまう。
なにはともあれ、「共感できないもの・よくわからないもの」というか「自分のボキャブラリーの範囲内では扱いきれないもの」に対する態度は益々厳しく、というか軽く、ぞんざいになっていくことだろう。インターネットの流通を支える輸送手段がルサンチマンである限り。だがしかし所詮こんなのはご近所トラブルの類でしかなく、巷で「コップの中の嵐」と言われるもので、スケール的にこんがらがったイヤホンのケーブルを解く程度の話に過ぎないのですが。
などと言ってみてもなんとなく口の中がほろ苦い。なぜこのようにエレガントさに欠ける繰り言をブログに書かなくてはいけないのだろうか。シティ感ゼロ。ほんとうにザ・インターネットという感じ。こんなことをいちいち書く必要のない人物の身のこなしをやはり想像しなくてはいけない。
ところでレンタルビデオ屋行くと「ザ・インターネット」というタイトルの映画があって見るたびにどきっとする。「ザ・エージェント」もあるし、きっとそういう事なんだろう(奥田民生調)。
https://www.youtube.com/watch?v=E-rstOjonZU