愛新カルマ溥儀 VS Notoriious B.l.G.

近所に住む友人に誘われて野方にある秋元屋のような雰囲気のやきとん屋で飲み。やきとんって味噌だれなのに美味しいから不思議。地元愛知では「つけてみーそ、かけてみそー」などと歌いながら何にでも味噌をかけて食べてしまいがちなのだが、地元というか名古屋の味噌だれは甘ったるいので全然好きではなかった。だから味噌カツもあまり好きじゃない。でも、やきとんの味噌だれは美味しいと思う。好き。
ちょっと待て、やきとんの味噌だれが美味しいからって名古屋の味噌だれを貶す必要はないじゃないか。そんなことを言う人がいるかもしれない。お前は相対的な優劣でしかものを語れていない、美味い不味いは絶対的な評価を下してしかるべきものではないのか、と。わかる。その意見すごくわかる。
二軒目。バーに移動。一年に一回のペースで通っているお店に久々に行ってみたのだがお店の人が名前を覚えていてくれて感動。酔った友人がトリプルファイヤーがどうのこうの言い出してなぜかお店の大型モニターで知らないお客さんと一緒に一年前のクアトロのライブ映像を見る羽目に。どうして地獄のような仕打ちを受けなきゃいけないのかと思ったけれど、見始めたら別になんてことはなかった。他人がオススメするわりとどうでもいいオモシロ動画を見させられているときのように、とまではさすがに言わないにしても、心はすこぶる冷静および無風状態。凪。ただ自分の姿がとってもスリムなことには驚いた。1年ぐらい前のことだからランニングを始めて3ヶ月ぐらい経過して10kmを完走できるようになった頃。すごい。
現在はじわじわと着実に脂肪がつき始めている。太ってくると人から「ガタイ良くなった?」と聞かれる場合が多い。みんな優しいね!太った原因はやはり晩酌か。
諸々の作業が一段落したのが先月の頭ぐらいで、それ以降、毎日のように晩酌をするようになった。スーパーでホワイトベルグを久々に見つけたので買って飲んでみたところこれがなかなか美味しくて思わずamazonでケース買いしたことがきっかけ。ここ何週間はそれを飲みながらコメディ番組などを観てウヒャヒャヒャヒャと笑うトラッシュな余暇を過ごしていた。こんなことではダメだ。

大学1年のときに中野ブロードウェイのTRIOで購入。来月、著者の一人小柳帝さんとミツメのまおくんとナカヤーンとイベントでご一緒することになりました。何があるかわからないものです

@mushitokaが投稿した写真 –


去る11月26日に開催されたRecord Snore Day(以下RSD)は楽しいイベントだった。選曲リストはRSDのサイトに随時アップされる予定。一番手小柳さんのプレイリストはすでにアップされている。

https://www.tumblr.com/recordsnoreday/154078440802/record-snore-day1-%E5%B0%8F%E6%9F%B3%E5%B8%9D-set-list


私以外みなレコードを駆使してDJをしており、100%CDでDJを行った私は少し体裁が悪かった。レコードはなんというか伊達やダンディズムというとちょっと違うけれど、意地を通す感じが良いなと思った。やはりムッシュの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の3番的な世界観は何があっても支持していかねばなるまい。
イベント終了間際にお客さんの一人が話しかけてくれた。今日はCDばかりだったけどレコードも持っているんですか?どんなレコードを持っているんですか?と聞かれたので、何があったっけ?と考えてみたが、自分でも何を持っているのかわからなかった。5年ぐらい前に金策のために粗方売ってしまったうえに、たまに思い出したかのように1、2枚買ったりするので、手元に何があるかキチンと把握できていないのだ。そんな質問をされてからというもの、そのことが気になって気になって早く確かめたく仕方がなかった。しかしレコード棚の前にはCDがちょっとした摩天楼のように山積みになっていてそれをどかさないことには確かめられない。部屋には物が溢れ返っていて全てが連動しあっているから、どこか一箇所をを片付けようと思っても、スライドパズルのように目的のものを移動させるためにまず周辺のものを空いているスペースに移動させなければいけない。つまりCD周辺の衣類、書籍、楽器・機材なども片付けなければいけいないというころだから非常に手間がかかる。そんなことをするのは億劫だ。それでもやはり気になる。そこで掃除も兼ねてCD摩天楼を移転させることにした。
CDの移動には2時間ほどかかった。早速レコード棚を漁ってみる期待したものがなくて非常に残念な気持ちになった。ビリー・ジョエル、ロギンス&メッシーナ、ELOみたいなラインナップ。実際にはそれらのレコードは一枚も持っていないのだが、こう言えば何となく雰囲気は伝わるだろう。これではレコードでDJすることなど無理。
その日は帰宅する前に新宿のアルタにあるHMVのレコード屋に寄っていた。Jo Mamaの2ndが100円で売られていたので購入。他にベティ・エヴェレットの『Happy Ending』などを購入した。『Happy Ending』は編曲にジーン・ペイジ、バッキングにジョー・サンプル、デヴィッド・T・ウォーカーなどが参加しているアルバム。”God Only knows”のカバーが聴きたくてネットで探してみたものの入手が難しそうで諦めていたがちょうどタイミング良く発見できたので嬉しかった。嬉しかったなどと言って馬鹿みたいに欲しいと思ったものを何でも買っていたら懐が危ないので、値段が3ケタのものしか買わないというルールを自分に課することにする。
飽きっぽいのでこの熱がいつまで続くかは不明。ゆえにRecord Snore Dayの定期開催を希望する!

 

Ultimate Party Nov. 18, 2016

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  1. Two Oldtimers – Moebius & Plank
  2. By This River – Brian Eno
  3. Zopf: In A Sydney Motel – Penguin Cafe Orchestra
  4. Lagoon – Latin Playboys
  5. Le Grande Compositeur Vu De Face – ZNR
  6. La Bolla – Picchio Dal Pozzo
  7. A Sprinkling Of Clouds – Gong
  8. Kekse – Harmonia
  9. Oostend, Oostend – Cos
  10. Tout arrive – aquaserge
  11. Speaking Gently – BADBADNOTGOOD
  12. Homage – Mild High Club
  13. A Dream Goes On Forever – Todd Rundgren
  14. Til I Die – The Beach Boys
  15. Xl-30 – Shuggie Otis
  16. Flying – The Beatles
  17. Spoon – CAN
  18. Les zouzes – Aquaserge
  19. Nave Maria – Tom Zé
  20. Uccallin Del Bosco – Picchio Dal Pozzo
  21. The Legend Of The Golden Arches – Frank Zappa & The Mothers
  22. I Be Later – 49 Americans

 

再びリズム論のためのメモ

頭に拳銃を突付けられて以下のように書けと誰かに脅迫を受けているわけでもないのになぜこんなことを書かなければいけないのかという疑問もあるし、いささかオカルトめいていてヤバイなとも思うのですが、敢えて言ってしまうと、音楽や音それ自体が情緒や共感など知ったこっちゃないという顔で聴く者の期待などお構いなしにそこかしこを所狭しと奔放に動き回るものであるという事実に対し、我々がこうも無関心なのは、音楽が音楽として機能することを阻み、音楽なんぞ耳を傾けるに値せず日本語として意味が通じさえすればそれで充分だという態度で音楽の自律性を排除し、音楽が比喩表現の一種であったことなど未だかつて一度たりともなかったにも関わらず、そのように扱ったほうが何かと都合が良いという理由で音楽にその役割を押し付け、その絶えず動き回るものを日本語の枠内に押し込めて安心せんとする日本語一派の末裔だからではないかとついつい考えてしまいます。誰かが自らを音楽関係者と称し、いかにもスマートなリアリストといったツラを装って音楽業界の現状分析などをしながら逆説的に音楽なんか時代錯誤で退屈だから聴かなくて良いよ、それよりもこっちをお食べ、などといって一口サイズの駄菓子状になった日本語を配布して回ると、訝しながらもそれを受け取り、口の中に充満した甘みにウットリとするうちに、自らの頭部に耳という器官が付いていることを忘れ、その駄菓子状になった日本語を舌で撫で回した後、今まさに咀嚼されつつあるぐちゃぐちゃになった日本語を口を開いて人に見せたかと思えば、ただその日本語について語ることにかまけるばかりで、音楽は聴くものであるというとりあえずの前提を有耶無耶にしてしまいがちです。今は気が利いたようなコメントをSNSなどで呟いてさえいれば何か音楽に寄与した気分に浸れるのかもしれませんが、音楽に耳を傾けずともちょっとした来歴やインビュー記事、他人による見解など文字による情報を目で追っただけで言えてしまうような頓智ないし屁理屈などは音楽そのものとは一切関係がないことだし、例えば一時期流行した高速4つ打ちと呼ばれるスタイルに対して遺憾の意を表明することも、音楽的良心の発露や音楽の退廃を憂う素振りに見えてその実、一口サイズとなった日本語の流通経路の拡充に加担することに他ならず、そういう態度こそが退廃を加速させているとしか言いようがありませんが、あくまでその退廃は我々自身の退廃であって、まかり間違っても音楽自体の退廃ではないのだから、そんなものは放っておけば良いとは思うものの、そういう取り違えを無自覚なまま繰り返した挙句、謙遜のつもりなのか、それとも音楽を貶めることで自己の優位を示したいのか、やはり音楽関係者を自認しながらも、文学やお笑い、スポーツなどの他ジャンルに比べると音楽なんぞ大したものではないと訳知り顔で嘯く者もおり、それが個人の趣味の問題に帰することは重々承知のつもりですが、それでもやはりこのような手合は放っておくと、仮にダーツの矢が顔面に二三本刺さっていたとしても痛いとも痒いとも感じることもなく、他人から、ちょっとあなた、顔に何か刺さっていますよと指摘されるまでそのことに気付かないほど厚くなったツラの皮を引っ提げて大した根拠も持たずしてつけあがる一方なので、どこかでしかるべき制裁が下される必要があると考えますが、かといって、そのツラの皮の厚さを面白がってその人物の顔面を物陰からこっそり吹き矢の的にして、刺さった、刺さったと喜んだりするのはやはり人の道から外れた行為だから決してやってはいけないことだよなあ、と思いつつ、しかし、このようなことを書き連ねること自体が物陰からこっそり他人の顔面を吹き矢の的にして遊ぶ行為に他ならないかもしれないよなあ、と思いさすがにしのびない気持ちにもなったりしますが、それでも尚そういった不遜な台詞が何の逡巡もなく口からぽろんと出てきてしまう人物に対し、大したことがないのは果たして音楽の方なのか、例えば大したことがないのはお前の耳であるという可能性はありはしまいかと一考を促すことが我々がみせるべき唯一の親切心ではないかとは思うものの、根っからの日本語一派にありがちなことですが、例え試合に負けさらには勝負にも負けたとしても最終的に頓智や屁理屈を捻り出して彼らが論破と呼んでいる得体の知れない呪文のようなものを下卑た笑みを浮かべ下卑た調子で唱えさえすれば、いつでも一発逆転できるだろうと高をくくっているので、耳がどうのといったところで、いかにも日本語以外信ずるに値せずという態度で、やれ本質だの、やれ自意識だの、やれ本当に○○な人は△△だの、やれ純粋さがどうしただの、やれ人としての器がどうしただの、やれそんなことを言っている奴はモテないよだの、夏休みや冬休みに成田空港で取材されている小学生のほうがもっと気が利いたことを言ってくれるであろうと思わずにはいられないような十年一日のごときクリシェをしたり顔で言い返すのが関の山で、まったく冴えたところのない大学2年生がぬるいニヒリズムから口走りがちなフレーズをこの期に及んでまだ言うかと思わんでもないのですが、たまにはそういった対話を通じて何があろうと決して変わらないものの良さを味わいながら、故郷の山並みなどに思いを馳せてみたりするのも一興かもしれませんが、そうは言いつつも変化を希求する素振りを見せながらも何をしたところで決して何も変わらないという現実に自足しきって、長年住み馴れた淀みに対し、それがどんな腐臭を放っていようと、愛着や一抹の安らぎを感じてしまう自分も確実にそこにいるわけで、自分のことを棚に上げて他人になんのかんの言えた義理などどこにもないよなあ、余計なお世話だよなあ、脊髄反射的にクリシェに対してクリシェで返しているだけだよなあ、脊髄反射でものを言うようになったらいよいよヤバイよなあ、こんなことではたしかにモテナイよなあ、といった具合に少しは前頭葉を使って反省してみせる必要があるのかもしれませんが、今そんな悠長なことをしていられるほどの余裕はありません。我々に課せられた急務は再びリズムについてじっくりと取り組むことであり、リズムについて日本語で語ることの滑稽さ、無様さを改めて知ることでありますが、それはまた別の機会に譲りたいと思います。

 

“Music Voyage DJ solo” MASAMICHI TORII -トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会 Oct. 18, 2016

10月18日にcafe104.5にて行われた『”Music Voyage DJ solo” MASAMICHI TORII -トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会』にお越しいただいた皆様、ありがとうございました!(タイトルの日付が間違っていたので直しました…わちゃあ)
ところで、cafe104.5に置いてあるビールって本当に美味しいですね。ビールに明るくないので下手なことはいえませんが、エールっていうのですか。少し酸味があってフルーティな香りがするビール。エールに分類されるビールがおしなべてそのような味がするというわけではないのかもしれませんが、それはともかくとても美味しいです。そしてすごく飲みやすい。いかんせん味音痴なもので、黒ラベルと一番搾りの違いがあまりわからないというところはありつつも、繊細な鼻と舌の持ち主なんです。安い海産物などは臭みが気になって食べられないほどです。と言いつつも結局食べますけどね。酸っぱくなった味噌汁はさすがに飲めませんが。それは誰でも一緒か。何はともあれ、美味しさは保証付きなので安心してください。いや、おまえに保証されるまでもなくわかってらい!っていう話ですね。失礼いたしました。
既にSNSで公開済みではありますが、こちらがプレイリストとなります。

  1. Guitar Man – Elvis Presley
  2. Guitar Child – Duane Eddy
  3. Guitars And Bongos – Lou Christie
  4. Hop, Skip And Jump – Speedy West & Jimmy Bryant
  5. Mr. Sandman – Les Paul & Mary Ford
  6. No Good Lover – Buddy Miller feat. Ann McCrary
  7. Mystery Train – The Band
  8. Crop Dustin’ – Steve Cropper
  9. Soul Man – Sam & Dave
  10. Higher & Higher – Geoff Muldaur
  11. Crusin’ – Smokey Robinson
  12. You Sure Love To Ball – Marvin Gaye
  13. You’ve Been Around Too Long – Carole King
  14. Now That Everything’s Been Said – The City
  15. Machine Gun Kelly – Jo Mama
  16. For Sentimental Reasons – Danny kortchmar
  17. You Told Me Baby – Bonnie Raitt
  18. Washita Love Child – Jesse Davis
  19. The More I Give – Dr. Feelgood
  20. Lipstick Traces – Snooks Eaglin
  21. Don’t Cry No Tears – Neil Young
  22. Neil Jung – Teenage Fanclub
  23. Miss Williams’s Guitar – The Jayhawks
  24. September Gurls – Big Star
  25. Hang Down Your Head – Tom Waits
  26. Voice Of Chunk – The Lounge Lizards
  27. Tropical Hot Dog – Captain Beefheart
  28. Hear My Brane – The Soft Boys
  29. Another World – Richard Hell & The Voidoids
  30. Third Man Theme – The Band
  31. The Model – Snakefinger
  32. Whole Wide World – Wreckless Eric
  33. Gee Baby Ain’t I Good To You – Geoff Muldaur
  34. Please Send Me Someone To Love – Paul Butterfield’s Better Days
  35. Midnight At The Oasis – Maria Muldaur

冒頭の3曲を見ればすぐにわかることですが、今回のテーマは「ギター」です。ジャンルに偏りが出ないようなテーマは何かと考えた結果、このようなテーマになりました。そんなことを言っても結局偏ってしまうのですが。心なしか秋冬仕様になっているような気がします。しかし、これ持ってこりゃ良かった!という後悔は毎回つきものですね。
ひとつ気になるのは、ボニー・レイットの”You Told Me Baby”の右チャンネルから聴こえるカリンバのようでもありプリペアドピアノのようでもある楽器。フレーズ的にギターのように演奏されています。こちら調べてみると”steel drum” guitarとクレジットされているそうで、演奏しているのは当該曲の中で素敵なギターソロを披露しているジョン・ホールでございます。ブリッジ付近に空き缶を甘めに押し付けて弾くとそれっぽい音になるのですが、実際はどのように工夫して録音したものなんでしょう。それとも”steel drum” guitarという楽器が実際に存在するのでしょうか。問い合わせてみたいものですが、どこに問い合わせたら良いのやら。
ここで改めまして、当日お越しいただいた皆様に感謝を申し上げたいと存じます。誠にありがとうございました。今後ともご愛顧のほど、何卒よろしくお願いいたいします。行きたかったけど行けなかった!という方はまたの機会に是非!
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Twitter:senkanofficial

 

僕ってお祭り大好き人間なんです

近頃またお腹が出てきた。食後、鏡にお腹を映してみるとなんだかアフリカに生えている木のようだ。見ていてあまり気持ちの良いものでない。インターネットで検索した結果、そのアフリカに生えていそうな木はボトルツリーと呼ばれていることがわかった。
今回お腹が出てきた原因はおそらく夏の間に砂糖がふんだんに使われている炭酸飲料を飲み過ぎたせいだろう。甘い炭酸飲料はラーメンやスナック菓子などよりも太りやすい気がする。
大人になったら甘い飲み物は飲まないものだと思っていたけれど、三十近くなった現在も毎日のようにガブガブ飲んでしまう。子どもの頃に周囲の大人を見て大人は甘い飲み物を飲まないという印象を持っていたから、大人になれば自然と甘い飲み物を飲まなくなると思い込んでいたが、よくよく考えてみたら加齢がもたらす変化よりも生育環境が与える影響のほうが大きいような気もする。彼らは小さい頃に甘い飲み物をそれほど飲んでいなかったはずだ。一方我々は小さい頃から様々な甘い飲み物に慣れ親しんできた。それで大人になっても依然と砂糖を欲する体質になってしまったのではないだろうか。
机の上にライフガードなどの甘い炭酸飲料を置いているとやはりお子ちゃまという感じがして恥ずかしいけれど欲望には抗えない。私にとって砂糖はやはり「幸せの白い粉粒」で、いつでも味わっていたいもの。なぜならいつでも幸せでいたいから。そんなふうに砂糖のことを考えているとなんだか口さみしくてなって落ち着かない。イライラする。今すぐ通りに出て叫び出したい。居ても立ってもいられなくなり思わずお腹の贅肉を両手で力一杯に握りしめた。内出血を起こすほどの強さで。そうすると心なしか砂糖への欲求が去っていくような気がした。ただし痛みは残った。この痛みこそ生の実感。
でもそんなことはもうどうでもよい。金木犀香る今は秋。気の滅入る曇天。地元ではお祭りの季節。うちの地区では厄年の男達が山車を引っ張って町内を練り歩く。神社では櫓が組まれて餅投げが行われる。餅投げは厄年の男たちが櫓の上から餅を投げ、櫓を取り囲んだ人々がそれを拾うというだけの儀式ではなく、餅には賞品が付いているため、この餅投げという昔ながらの風習には賞品を巡る戦いという側面もある。餅はビニール袋に入っていて、そこに親指の爪ほどの大きさの色紙が同封されている。この色紙を後から賞品と交換するという仕組みになっており、たいがいの色紙はポケットティッシュや亀の子束子にしかならないが、金や銀の色紙は電動アシスト自転車や大型テレビといった豪華賞品に交換できる。また、こどもの部というのがあり、これの一等はたしかゲームボーイだったはず。他にも女性の部などもあったような気がする。
それは小学4年生のときのことだったかと思われるが、餅投げの日、少年野球をやっているような発育が良く大柄な同級生たちがこどもの部に飽きたらず一般の部つまり大人の部にも参加するというので、それならばと自分も参加することにした。
餅を入手する方法は、櫓から投げられた餅を空中でキャッチする方法と、地面に落ちた餅を拾う方法の二種類ある。前者は大人たちよりも身長の低い小学生には難しい。だから後者の方法で餅を集める以外に手立てはなかった。
そのような事情から屈んで地面に落ちた餅を集めていたところ不注意にも手を踏まれてしまった。タイミングから察するに、不慮の事故といったものではなく明らかに意志をもって踏んできたように感じられた。ただ、悪意をもって手を踏んできたわけではなく、餅に執心するあまり餅に覆いかぶさった子どもの手をそれと認識せずにただの障害物ぐらいに思って咄嗟に足が出てしまったのだろう。しかし毒を食らわば皿までと思ったのだろうか、そこからさらにぐりぐりと踏みにじって手を退けようとしてきてなかなか足をどけてくれなかった。
相手を見上げると六十がらみの爺様が恨めしそうな目つきでこちらを睨んでいた。表情から察するに「邪魔しやがってこのクソガキが」ぐらいのことは思っていたであろう。
子どもにとって餅投げの大人の部に参加することにはある種通過儀礼のような意味合いがあったかもしれない。櫓の下で繰り広げられるのは興奮状態の老若男女が泥塗れになりながら他人を蹴散らし、欲望をむき出した状態でひたすら餅を拾うという熾烈極まる世界だ。日常の生活に比べるとそれはとてもアナーキーな世界に感じられた。とは言っても、この歳になって改めて参加してみたらそれほど大げさものではなくてもっと可愛らしいものに感じられるとは思う。それでもやはり、ぬくぬくと育てられて、家と小学校の中の世界しか知らないような子どもが、そんな大人の世界にノコノコと出て行ったら面食らうに決まっている。
筋の良い子であれば「あ、世の中ってこういうものなのね」などと言って世の中の対する落とし所がすんなりと見つけられたはずだし、そこから身構えて対処することもできたのであろうが、悲しいかなとても筋の悪い子どもだったので爺様に手を踏まれた瞬間に「あ、ぼくもうこういうの絶対にやりたくないです」と思ってしまった。今思えばそれは生まれて初めて心が折れた瞬間だったのかもしれない。もちろんそれまでにも子どもなりに軽い挫折のようなものは味わってはいたが、どれもその場限りの感情に過ぎず、未来に暗い影を落とすというようなものではなかった。しかしこの一件は、心に暗雲が立ち込めて将来の見通しまで暗くしてしまったようなところがある。そのときに、そこまでして他人を出し抜きたいと思わないし、今後はこのような血生臭い争いごとに一切関わってたまるものかよと思ったことを覚えている。今にしてみれば単に負け癖がついてしまっただけのような気もする。
飲み会などで全く遠慮ということをせずにそれをまだ食べていない人がいようがいまいがお構いなしにパクパクパクパク食べて食べて食べつくす人など見るとどうしても引いてしまう。皆で話しているときに人の話題を奪ったうえで一人で延々と演説を打つ輩も許せない。コンビニでフォーク並びが理解できずに順番抜かしする輩がいるとむかっ腹が立って「このイモ野郎が!」と思わず心の中で毒を吐いてしまう。ビンゴをやっていて列が揃っていても最後までビンゴと言い出せない。それもこれも餅投げで手を踏んづけてきた爺様に対する嫌悪感が影響しているような気がしないでもない。情けないことに「世の中ってそういうものじゃない」なんてふうに未だ折り合いをつけられずにいる。
自分が受け取るはずであった利益が他人によって不当に侵されているというような被害者意識が心のどこかに常にあって、それが思考の根幹に強い影響を与えている気がする。精神科医の春日武彦曰く『人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎない』と。
被害者意識というものは視界を曇らせるから用心しなくてはならない。過度な被害者意識と正義が結びつけば人をとんでもないところまで連れていってしまいがちだ。この組み合わせはもう本当に碌なものではない。自己憐憫の心を煽りつつ水面下で利益を自分の方へと誘導させようと企てる言説全般に対して我々はそれを見つけ次第反吐を浴びせかけてやらねばなるまい。「自分が受け取るはずであった利益が常に他人によって不当に侵されている」と思うのであればその反対のことも必ず検討していく必要がある。つまり「他人が受け取るはずの利益を自分が不当に侵しているのではないか」ということを常に念頭に置いていなければ、エゴは肥大化する一方であろう。というよりそもそもの話、自分がその利益を受け取ることを自明とする心性自体に問題があるのかもしれない。
そういう視点を欠いたまま「東京育ちは心に余裕があって、上京組はガツガツしている」みたいなことを言ってしまったらそれはさすがに不味いのではないか。しかし「東京育ちは心に余裕があって云々」という発言の根幹にあるようなある種の屈託のなさは本来美点として挙げられるべきだろう。むしろそういうものを積極的に擁護していかなければいけないところまで来てしまっているように感じる。及び腰で謙虚なスノビズムなんて毒にも薬にもならないことは火を見るよりも明らかだ。ものすごく低姿勢且つ柔和な語り口で書かれたユーミンの著作「ルージュの伝言」を想像すると、果たしてそれは面白いのかと考えざるをえない。『仁義なき戦い』の名ゼリフに「吐いた唾飲まんどけよ」というのがあるが、後からしおらしくされたところで興ざめするだけだ。DV男じゃないんだから。(ところで、この記事の冒頭の文章で仰っていることはとても素晴らしい!ALL ABOUT CULTURE わたしたちの文化の秋 〜みんなで文化を共有しよう!〜)
ルサンチマンを滾らせて他人が馬脚を露わすのを今か今かと待ちわびている魑魅魍魎が跋扈するインターネット上において、スノビズムを全うするのであればやはり入り口を利休のにじり口みたいにして緊張感を持たせなきゃなかなか難しいように感じるのだがどうだろう。でもそれではたぶん商売にならないだろう。
スノビズムにはやはり愛嬌も必要だと思う。何年か前の早稲田祭で細野晴臣のライブを見たときに感じたことだ。細野晴臣からは禍々しいほどのスノッブさというかノーブルさが放たれていたが、それをあの特有の可愛らしさがかなり中和しているように思えた。
でももうそんなことには構っていられるものか。こんなことが書きたくてブログ(死語)をやっているわけじゃないっつうの。金木犀香る今は秋。気が滅入る曇天が続くけれど、食べ物は美味しい。それが秋というもの。そして、そんな季節に打ってつけのイベントがあるのです。

Music Voyage : DJ solo 鳥居真道 2016.10.18 tue. – トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会 –


こちらを簡潔に説明すると、美味しい料理と美味しいお酒を楽しみながら最高の音で音楽を聴こうという内容のイベントとなっております。その選曲を仕るのが私鳥居というわけなのです。
DJ:鳥居真道(トリプルファイヤー)
2016年10月18日(火)
[DJ time]7:30pm – 9:30pm 
Admission Free(入場無料) ※ご飲食代のみ
ご予約はお電話で承ります。TEL : 03-3251-1045
Music Voyage : DJ solo 鳥居真道 2016.10.18 tue. | MUSIC | cafe 104.5
皆様是非是非お越しください。よろしくお願いいたします。

 

Nanso Country Club インタビュー『東京生まれの彼らが南総で音楽を奏でる理由』前編

憂いのベテランミュージシャンから、大学デビューの「ポパーイ」読者層まで、耳の早そうな音楽ファンみたいな振る舞いをする人たちから今年一番愛されつつあったのは間違いなくNanso Country Clubだろう、と誰かが言っているのをどこかで聞いたような気がする。「紳士のスポーツと環境破壊のマリアージュ」なんて評す声も耳に入ってきた。おもしろい。そう、それが彼らの、そう、第一印象だった。
千葉県市原市に居を構えて活動する彼らは、元々東京生まれ東京育ちのシティボーイたちだ。そんな彼らがあえて市原市に移り住んだのはなぜなのか。斜陽産業とも言われ断末魔を上げつつ生きながらえようとする音楽業界の主流から一定の距離を置いてマイペースに活動する彼らがどんなことを考えているのか。そんなことが僕はとても気になっていたのだったのだ。ボーカルかつメインソングライターのピョンヤンとキーボードのラブホテル君と小一時間ほど(インタビューは小一時間で終わらせる。それが僕のモットー)話をする機会を得た僕はそんな疑問を二人に投げかけてみたのだったのだ。
ちなみに今回僕が使ったレコーダーはお決まりのICレコーダーではなく、昔ながらのSONY製テープレコーダーだ。テープ特有のコンプレッションが利いたローファイだがウォームなサウンドが心地良い。Nanso Country Clubの音楽性にも相通じるところがあると僕は感じたのであったのだ。
なお、このインタビューは前後編に分かれている。前編は、若手ミュージシャンの中でも特にユニークな音楽性を持ったピョンヤンの音楽遍歴とバンド結成に至るまでの道程とラブホテル君の沈黙をフィーチャーした内容となった。
立川談寝具は練馬のほう
—現在はメンバー全員で市原市に移り住んで活動されているそうですが、元々は皆さん東京生まれなんですよね?
ピョンヤン はい、生まれた家は学芸大学の近くだったんですけど、小5のときに豊洲に引っ越しました。ラブホテル君は円山町のラブホテル生まれというどうでも良い設定が一応あるんですけど、本当は松濤生まれの松濤育ちで、親がマセラティに乗ってるような超ボンボンです。ギターの立川談寝具は練馬のほうで、トロンボーンの刑事トロンボは親が親なので場所は伏せておきます(笑)。
—そのことに関してはNGじゃないんですね。むしろウェルカムぐらいの感じですか?同じ境遇のミュージシャンでも触れられたくないっていう方が多いと思うのですが。
ピョンヤン トロンボ本人はどうしても先入観を持たれてしまうので嫌がるんですけど、変に触れないほうが余計に詮索されてしまうことってあるじゃないですか。だからこっちからガンガン言って、向こうが冷めちゃってもうどうでも良いよってなるとこまで持っていきたいんですよね。「お前はちゃんと実力持ってるんだし大丈夫だよ!KJだって昔CMで古谷一行と共演してたじゃん!」つって、結構いじっちゃってます。主に俺が(笑)
—ある種の開き直りというか。月並みな質問で恐縮ですが、どういうきっかけで今のメンバーと知り合ったのですか。
ピョンヤン まずラブホテル君とは、「ウォーハンマー」っていうミニュチュアゲームがあって、その大会で知り合いました。日本だとあまり知名度ないんですけど、海外だと結構人気があるんですよ。ボードゲームみたいな感じで、駒がモンスターとかロボットなんです。それを自分で塗装したりして。駒が小さくて精緻な作りなので、塗装にめちゃくちゃ細い筆を使うんです。冗談抜きで虫眼鏡とか使ってやるレベルです。
—他のメンバーとは?
ピョンヤン だいたいクラブで知りあったり、サーフィン仲間だったり、バーベキューやってたら誰かが連れてきたとか、数学オリンピックで知り合ったとか、そんな感じのゆるいつながりですね。
とりあえず『カントリー・ベアーズ』のサントラとか聴いてましたね
—音楽ありきのつながりではなかったということですね。そこからまたどういったいきさつでバンドをやることになったのですか。
ピョンヤン ざっくりと説明すると、俺が自分で音楽をやってみたくなって、知り合いで楽器できるやつを集めた感じですね。
—音楽がやりたくなったということですが、もう少し具体的なお話を聞いても良いですか?
ピョンヤン そもそもガキの頃から浦安のディズニーランドが大好きだったんです。中でもクリッターカントリー内のスプラッシュマウンテンが本当に好きで好きで。たぶん3ケタは余裕で乗ってると思うんですけど。そこから徐々にクリッターカントリーで流れてるような音楽にも興味が出てきて。でも最初は何を聴いたら良いのかわかんないから、とりあえず『カントリー・ベアーズ』のサントラとか聴いてましたね。
—カントリーだとかブルーグラスだとか、そういったアメリカンルーツミュージックに興味が出始めたわけですね。それまではどんな音楽を聴いていたんですか。
ピョンヤン 小学校の頃は主にエミネムを聴いてました。中学ぐらいから徐々にネイティブ・タン周辺を掘り下げていって。もちろんソウルクエリアンズ周辺も。それと平行してJBとかスライ、カーティスとかそういうブラック・ミュージックのクラシックも結構聴きました。兄貴の影響を受けつつ、って感じで。
—そこからカントリーに興味が移っていくわけですね。カントリーでいうと、『カントリー・ベアーズ』のサントラ以外にはどんなものを聴いてましたか?
CSの映画チャンネルでたまたま見た『クレイジー・ハート』の音楽が良かったからサントラ買って、T=ボーン・バーネットって人がいるってことを覚えて、そこから『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』のサントラを買ってみたり。コーエン兄弟の映画のサントラ揃えたり。あとはリバイバル上映で観た『ナッシュビル』のサントラも聴きました。
—ヒップホップからカントリーに興味が移るっていうのなかなかないパターンですよね。
ピョンヤン ヒップホップの場合は結構ファッションで聴いてるみたいなところがあって。もちろん音楽自体ものすごくカッコいいなと思って聴いてましたけど、日常にフィットするBGMって感覚が強かったかもしれないです。今思うとなんでアメリカのヒップホップが日常にフィットしていると感じたのかまったくもって謎なんですけど。一方クリッターカントリーで流れてるような音楽に対してはやっぱりあの風景込みで好きっていうか、とにかくあの世界観が大好きで。でも、ディズニーランド自体がそうですけど、あそこは非日常的な空間なわけじゃないですか。だから、非日常感を求めるっていう意識でクリッターカントリー的な音楽を聴いていた感じですね。それと、テイラー・スウィフトが元々カントリー歌手だったってことも結構ショックで。
「はいはい、ジブリね」みたいなテンションで
—話が前後してしまいますが、そこから実際に自分でもやってみようと思ったきっかけは何だったんですか。
ピョンヤン 結構ベタで恥ずかしんですけど、いわゆるアレです。『耳をすませば』。
—聖司くんが「歌えよ。知ってる曲だからさ。」と言って雫に「カントリー・ロード」を歌わせるシーンですか。
ピョンヤン そうですそうです。当時高校生だったから結構「はいはい、ジブリね」みたいなテンションでテレビ観てたんですよ。で、例のシーンで出てきたお爺ちゃんたちがめちゃくちゃ渋くて、気付いたら心奪われてましたね(笑)。それで、楽器弾けるようになんないと!と思って、翌日早速楽器屋に行きました。
—そこで買ったのはアコギですか?それともバンジョー?まさかフィドル?映画だとリュートを弾いてるおじいさんなんかもいた気がしますが。
ピョンヤン 鍵盤です。キーボードっていうんですか。ボタンが光ったりして見た目がカッコ良かったし値段もそこそこだったんで。ディズニーでいうとトゥモローランドの感じで、テンションあがって。なんだかんだスター・ツアーズとかもやっぱ好きなんですよ、結局。で、家帰って封開けていじったんですけど全然音が出ないんですよ。ていうか電源入れるところさえないんで、なんだこれ不良品かと思って。それで、ラブホテル君に連絡したんです。彼がニコニコ動画で何か音楽っぽいことやってるって知ってたんで、機械のことに詳しいんじゃないかって思って。そしたら「それMIDI鍵盤だよ」とか言われて。「は?」って感じだったんで、そんときに俺めちゃくちゃキレちゃって。まあ、でもそのあとラブホテル君が一から教えてくれたんです、DTMに関する知識を。
—ということは、楽器を始める前にいきなりDTMから始めたんですか?
ピョンヤン いえ、なんかやりたいことと違うなと思ったんで、結局そういう方向には行きませんでした。でもラブホテル君とせっかくだから一緒に何かやろうよって話になって。ひとまず彼には『カントリー・ベアーズ』のサントラを聴かせました。そこから俺の鼻歌をラブホテル君に曲っぽく仕上げてもらうっていう作業をやり始めて。そのときから自分で歌詞を書くようになりました。同時にラブホテル君にアコギを借りて練習したりもしてましたね。でもやっぱり出自が『耳をすませば』の例のシーンだから、ああいう感じでやりたいねって話してて。それで、知り合いに楽器やってる奴いないかって探して、興味持ってくれたのが今のメンバーですね。
—その時点で既にバンド名もNanso Country Clubだったんですか?「カントリー」っていうテーマがあったうえで。
ピョンヤン バンド名に関してはメンバーが揃ったタイミングで今の名前をつけましたけど、テーマ的には「カントリー」っていうより「ゴルフ」ですね。
—「ゴルフ」ですか?
ピョンヤン 元々親父がゴルフやる人間で。母親も母親で打ちっぱなしに行って運動不足を解消する感じの人だったんです。だから、小さい頃から家にゴルフクラブがあるのが当たり前の環境だったし、日曜日はテレビで親父の横でゴルフ中継見たり、パターマットで遊んでみたり、家族でマリオゴルフやったりみんゴルやったりとか。そんな感じでゴルフがすごく身近だったんです。兄貴はワーゲンの二代目ゴルフをレストアして乗ってましたし。あの車ってめちゃくちゃかわいいじゃないですか。そんなこともあってゴルフっていう単語にものすごくポジティブな印象を持ってたんです。今で言うとタイラーとかも結構使ってますよね。でも、そのまんま使っちゃったらもったいないっていうか、大事なときまで取っておきたいなって思ったので、ゴルフはあえて使わないで今のバンド名にしました。クリッターカントリーのカントリーともかかってるし、おもしろいかなと思って。
後編に続く
https://www.youtube.com/watch?v=S2DTLbTQj0I

 

猫ちゃんたちのパジャマ・パーティー!

「名盤か、茶盤か」という問題は依然として立ちはだかる。もちろん手応えを感じる日もあるにはあるものの、そうなんでもかんでもころころころとスムーズに物事が進んでいくわけではないから、ふとした瞬間に「茶盤」という言葉が目の前に立ち現れてきて、その度に虚脱を覚える。
あまり具体的なことを言って生々しくなってもしょうがないので、ぼんやりとしたことしか言えないが、「これって砂漠に水を撒いてる状態じゃねーの」という気持ちは常にある。基本的には自分のやっていることが歯医者さんの受付でおはぎを売るかのように頓珍漢なことではないのかという不安に苛まれているから、毎晩寝付きが悪い。
あれやこれや考えたところで、疲れるばかりで良いことなど何ひとつない。すべてに対し「もうなんでも良いよ。面倒くさいし」という態度を取っていれば良いのかもしれない。しかし、「こだわりとか…ないっすよ。ぶっちゃけよくわかんなくないすかぁ?」「そうなんだよね!正直わかんないよな!(な、おまえもそうだよな?)」などと言って全ての物事をナアナアにしてヘラヘラヘラヘラしている手合に対しては、『ドライブ』のライアン・ゴズリングのように、頭を踏んづけて頭蓋骨を粉々に砕いてやりたくなるほどの苛立ちを覚える。頭に血が上りすぎて視界に赤みが薄っすらとかかるほどだ。だから自ら進んでそういう輩どもの仲間入りしようなどとは到底思わない。
経済の効率という観点から、いわゆるミュージシャンのこだわり的なものを無駄なものとして排していくことがむしろクールだとする向きがある。七面倒臭いこだわりなんかよりも、「バズ」だとか「ストラテジー」みたいなことを重要視するのが当世風らしい。そんな三流のIT社長、五流の広告代理店でも言わないであろうことを得意顔で語られても反応に困ってしまうので、できることなら控えてほしい。
ただ、そうしたいかにもスマートでリアリスティックとでも言いたげな態度への反発心から、自分たちだけが真っ当な行いをしているかのごとく振る舞ったり、自分の好きなものに対して「○○の良心」というような言い方をするのはただの思い上がりでしかない。本来的に真摯な態度というものはもっと静かで人肌よりやや低いぐらい温度を保った態度ではないのか。やはり今の自分にとって本当に必要なのは粛々と物事を信じるということだろう。
橋本治曰く天才とは「何遍でも死ねる人だと思う」とのことだ。しかし現実は、毎日毎日、何をしようと、またどんな工夫を凝らそうと、淀みに嵌った笹船のようにくるくるくるくると同じところをただただ漂っているだけだという気がして、気が滅入るばかりだが、OMSBの”Think Good”を聴けばなんとかなるという気がしてくるので、毎晩聴いている。

 

トリリンの『ハピネス廃棄物最終処分場』

もう何年も前のことだが、ライブハウスで面識のない人に —別にこちらから何か話しかけたわけでもないのだが— 行きがかりで「あたし吉田派なんでぇ」と通告されたことを折に触れては思い出す。と書き出しておいて何だが、余計なことを書いても何かと面倒なのでこの話ついてはやっぱり止しておこう。そんなに大した話でもないし、どうでも良いといえばどうでも良いし、すべてが、森羅万象が。
過日。『シング・ストリート 未来へのうた』鑑賞。『はじまりのうた』がとても良い映画だったので期待して観た。ものすごく泣かされたけど、やっぱり『はじまりのうた』のほうが好き。『シング・ストリート』で一番良かったのは夫婦喧嘩が聞こえていないふりをして兄弟3人がレコードに合わせて踊るシーン。こういうところがジョン・カーニー監督の良いところじゃないのか。
過日。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』鑑賞。ノア・バームバックは日本では不遇の扱いをされているような気がする。ベン・スティラーとグレダ・カーウィグ主演の”Greenberg”はDVDスルーどころか配信スルー。邦題は『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』。amazonビデオで配信していたので鑑賞。
『フランシス・ハ』は同じ年頃の女性が主人公なので身につまされて鳩尾がキュウっとなる映画だけども、良い映画だった。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』はもっとラフに笑えた。ベン・スティラーは被害者意識や自己憐憫が強い役どころやらせたらもう本当に最高。被害者意識や自己憐憫が強い人におすすめの映画。アドム・ドライバーはカイロ・レンと同様、役者っぷりを存分に発揮。
それにしても、『イカとクジラ』、『マーゴット・ウェディング』は観てて本当に嫌な気持ちになる映画だったけれど、それに比べるとノア・バームバックも大分ウォームに。と言っても悪辣なジョークは健在。
スタッフロールで流れてきた曲がとても良くて、なんだろうと思い、クレジットを凝視していたらポールの曲だと判明。”Let ‘Em In”という曲。声と曲調でわかるだろという話だが、最初にエミット・ローズの曲かなと思ってしまったのだ。
過日。『シン・ゴジラ』鑑賞。大学の先輩、阿部翔平さんが出ていて驚いた!
過日。『DOPE/ドープ!!』鑑賞。ポスターなどから音楽映画かなと思っていたけど、長谷川町蔵・山崎まどかのコンビがいうところのアメリカ学園映画だった。ところでアメリカ学園映画とか青春映画って本国ではなんと呼ばれているのだろうと思って調べてみると、どうも”Coming-of-age story”と呼ばれていることがわかった。
『DOPE』の主人公は、黒人のステレオタイプからはみ出すキャラクターで、勉強ができて白人のようにスケボーを嗜む。90年代のヒップホップのオタク。ただし母子家庭で、住んでいるのもギャングたちがたむろする治安の悪い地域だ。言わば”M.A.A.D City”の”Good Kid”。
主人公の人物造形はこの映画のエグゼクティブ・プロデュサーであり、劇中歌を提供したファレル・ウィリアムスの生い立ちを参考にしているようだ。主人公たちが組んでいるバンドは「オレオ」という名前で、「オレオ」とは白人のような趣味を持つ黒人を指したスラングだ。ファレルも子供の頃は白人の仲間とつるんでいたためにオレオと揶揄されていたとのこと。
この映画を観て改めてネプチューンズとN*E*R*Dが与えたインパクトの強さがなんとなくわかったような気がした。ネプチューンズがいて、現在タイラー・ザ・クリエイターとかジ・インターネットがいるということを再確認。音楽的な影響だけでなくて、在り方として。
劇中で使用されてる曲は主に90年代のヒップホップで、選曲も良かったし、使われ方もタモリ倶楽部のBGMみたいで洒落が利いていた。
あと、主人公の友達のレズビアン役の女の子が可愛かった。それと、ヴィンス・ステイプルズがエイサップ・ロッキーの仲間役でちらっと出ていた。
はなしかわって(映画は未見)。
この間、ぼんやりと「やっぱり名盤を作りたいよなぁ」なんて考えていたら、「茶盤」という言葉がふと頭を過ぎって体中から力が抜けてしまった。このような脳みその構造には我ながら本当にうんざりする。
何かに取り組もうとするときに付随してくる根源的な馬鹿らしさを払拭することにものすごく体力を使っている気がする。考えれば考えるほどに何がしたくてやっているのかわからなくなる。それ故に「だからもうやらないんだよ!」の精神に結びつきもする。好きで始めたようなことだが、もはや社会主義的な労働としか思えなくなってしまった。
そう考えてしまうのは結果だとか反応だとかの外的要因に精神の在り方が左右されているからだろう。意識していないつもりでも心のどこかで見返りを求めてしまう。それが人情というものなのかもしれないし、または気の弱さと言えるかもしれない。それでもやはり邪念を振り払って物事を推し進めるのは難しい。なぜなら生活等々があるから。この間まで旧ソ連のプロパガンダのポスターを眺めては自虐的に己を奮い立たせていたが虚しくなるだけなのでもう止めた。
音楽活動は、例えば遠足のようにそれ自体が目的であるものではない。もはや誰もそんな風には考えないのかもしれないが、音楽活動に携わることの主軸が未だに音楽にあるのだとすれば、それをおざなりにしてただそれらしいだけの活動に感けることにはやはり心苦しさがある。調子の良いことばかり口にして、足元がおろそかになってしまうようではどうしようもない。いくら体裁良く活動ができたところで、内容が充実してなければモチベーションは保っていられない。
しかしいくら個人がそんなことを考えようが、人の流れというのはそんなことを端から問題にしていないという面もある。通勤ラッシュ時の人がごった返しになった乗り換え口を移動するときのように人の流れに身を任す以外にどうすることもできない。立ち止まったり流れに逆らうことは難しい。そこでは全てが液状化し、どんな懊悩もとりこし苦労と化す。疲労だけが蓄積されていく。
だから、もうそういうものは別として、一人で勝手に「趣味に還る」ということをやっていけば良い、と考えた。もちろん「やっぱり名盤作りたいよなあ」とか「自分が好きだと思える音楽を完成させたいよなあ」という意志はあるが、その一方で、子供の頃に誰に頼まれたわけでもないのまん丸でピカピカの泥だんごを作ることにひたすら没入したように一人遊びがもたらす気持ちの高まりを迂闊に扱わないようにしなくては、とも思う。と言ってもそんな遊びをしたことはないが。現状に即して言えば、気になったことをとことん調べたり、お店にCDを買いに言ったり、好きな曲をコピーしたりといったことをアブソリュートエゴ行為として気ままに楽しんでいきたいというただそれだけの話。
しかし、それはそれ、これはこれ、である。取り組むべきことにはきちんと取り組まなくてはいけない。当然、妥協や手抜きに加担したくはない。いくら妥協したり手を抜くことに心血を注いだところで、「ああ!あのとき妥協したり手抜きして本当に良かった!」という風に思うことは絶対にない。むしろ、心の底からこれで良かったんだと思えないのであれば、妥協や手抜きするだけ無駄だ。やはり妥協や手抜きをするのであれば、「出来には全く満足できていないけど、手抜きや妥協の結果、とても楽できたので良かったと思います!」ぐらい言わなきゃウソだね、と思う。「音で楽をすると書いて音楽」と言うぐらいだし。
妥協や手抜きから距離を置きたい、関わり合いを持ちたくないなどと言ってみても、実際に何かをするということはやはりとても大変なことだ。信念とでもいうべきものに基いてより真摯に物事に取り組もうとすればするほど摩擦係数も大きくなる。精神はガリガリと削られて摩耗していく。すこぶる当然だと思うことをやっているだけなのに「ストイックな職人気質」なんて見当違いのことを言われる。そこまでして何かをするくらいなら「がんばります」とでも嘯いたうえで、何もせずにだらだらと過ごしていたほうが心身にとっても良いことではないのか。周囲も「もう、おまえってやつは。本当に仕方ないんだから」などと言いながら満更でもないような様子で接してくれることだろう。それこそ低値安定というものだ。下手に波風を立てるぐらいならば問題を棚上げにして和気藹々と現状維持に努めるのもひとつの手であろう。
いや、もういい加減そんな生ぬるい態度は唾棄すべきである。そんな下らないものに対しては体が干からびて朽ち果てようとも唾を吐きかけてやらねばなるまい。
はなしかわって(映画は未見)。
近頃はドラムのことが気になって気になって仕方がなく、インターネットを使って色々と調べ物をしていたらおもしろいコラムを見つけて、一気に全部読んでしまった。
三原重夫のビギナーズ・ドラム・レッスン
三原重夫さんはローザ・ルクセンブルグ(学生時代にコピーバンドをやったことも…)のドラマーとしてキャリアをスタートされた方で、現在はドラム・チューナーやエンジニアとしても活動されているとのこと。
不遜な言い方ではあるがまさに我が意を得たりといった感動があったし、やたらと難しく考えてしまう節があったところをもっとシンプルに考えろという示唆も与えてくれた。グルーヴだのタイム感だの言ったところで、4分の4拍子がきちんと演奏できていなかったらどうにもならない。4拍子を手拍子で合わせるところから始めるつもりで合奏することに取り組んでいきたい所存であります。
https://www.youtube.com/watch?v=0y0v7zpHJkU

 

トリリンの『日々是ハピネス!』

▪️前回までのあらすじ

「不明なアーティスト」に出演した際に、学生時代に通い詰めた在りしの日の部室を思い出し、懐古の念を強くする鳥居であった…

角川シネマにて『ミスター・ダイナマイト:ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』鑑賞。
印象に残ったのは、メイシオ・パーカー、メルヴィン・パーカー、ピー・ウィー・エリス、フレッド・ウェズリー、クライド・スタブルフィールド、ジョン・ジャボ・スタークス、ブーツィー・コリンズといったミュージシャンたちのJBへの思いが皆一様にビターということ。もちろんギャラの未払い問題などで、態度に現金なところがあるのもやむ無しとは思うが、変に美談に持って行ったりせず、長いキャリアの中の仕事のひとつとして振り返る姿がドライでとてもクールだった。
美談というものは活動に潤いを与えることもあるが、同時に湿気らせもするし、もっと行き過ぎれば液状化させもする。活動する側が美談ありきの湿っぽい活動を続けた場合、その活動はグダグダでビチョビチョなものになりがちだ。昨今はSNSなどを通じて長い長い梅雨のように美談がしとしとしとしと降り続くので、どうしてもアン・ピーブルズのような心持ちになってしまう。
ヒップホップのブレイクの大定番「ファンキー・ドラマー」を演奏したクライドご本人によれば、「全然好きじゃない。あんなもんはやっつけ仕事だ」とのことだ。これを聞いて思ったのは「スタンダード」を作るのはやはり聴く側ないし受け取る側の方であるということ。ここでまた「”わたしゃ富山の押し売り男”の受け売り男」の登場だが、大滝詠一は「ポップス”普動説”」の中で以下のように語っている。
「歌は世につれ、というのは、ヒットは聞く人が作る、という意味なんだよ。ここを作る側がよく間違えるけど。過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことなんてないんだ。作る側はあくまで”作品”を作ったのであって”ヒット曲”は聞く人が作った。」
『ミスター・ダイナマイト』に登場したミュージシャンたち、加えて『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』に登場した名うてのスタジオミュージシャンたちも、業界の酸いも甘いも味わいきったような風情があり、なんてことのない様子で語る姿がまた渋いというかクールだと感じた。また眼光から放たれるミュージシャンとしての矜持にすこしクラクラした。
ところで、プロモーションの一環で行われるインタビューで「おもしろい!」と思えるものって相当稀ではなかろうか。特にネットのコンテンツ。あれって誰のために作られているものなんだろう。「CDTVをご覧の皆様!」みたいなお約束的なものか。受ける方も受ける方でプロモーション故に無下にはできず、渋々やって、やっつけ程度に適当に流すのがマナーみたいな風になっているが、そんなもん読んでもねぇ。読むほうも無料だしこんなもんかと思って読んでいるのだろうか。「何か書いてあったな」程度のものがネットでは良い湯加減なのかもしれない。でも本当はレコミンツのHPでやってたミンツバーとか、ああいうのが読みたいですよ、こちらとしては!そういえばインタビューのお金の流れってどうなっているんだろう。どっちがどっちにお金払っているのだろうか。
はなしかわって(映画は未見)。「ずっと居心地の良い所にいてはダメだ」みたいな考え方ってあると思う。居心地の良い場所に留まっていると、そこに埋没してしまい、その結果、魂が淀んで腐ってしまうから良くない、というような。
既に「在りし日の部室」という表現を使ったが、これは自分にとって居心地が良いものの象徴だ。もはや失われてしまったものではあるが。
大学生活の終わりごろから、話が合う人と日常的に接するということがなくなり、ある種の欲求不満のようなものに苛まれて、こんなようでは先が思いやられるぞと危機感を覚えることがあった。それほどまでにサークルにおける人間関係を内面化していたということか。
そういう危機感もあったし、「ずっと居心地の良い所にいてはダメだ」みたいな考え方が自分の中にも少なからずあったのに加え、よく人文系の偉い人が「他者と出会う」みたいことを言うので、それを真に受けて、いささか自分本位の身勝手な言い草ではあるが、いまいち話が合わなかったり、大前提となるような感覚が共有できそうもないことが端からわかっている環境に身を置く場合でも、何かしらの刺激になるだろうと思ってしぶとく居座ることもあった。
これが果たして「他者と出会う」といえるのか、といった疑問が頭をもたげつつも、結局状況におし流されて、ただただ時間だけ過ぎていく、というパターンをあまりにも多く繰り返しすぎた。常日頃から共感なんぞ傍ら痛いなんて考えているつもりであっても、自分以外の者が全く同意できないことに対して「わかる」「そうなんだよ」「なっ!」なんて言い合っているのがごく当たり前の環境にいるとさすがに心細くもなる。「やっぱり雨降って地固まるよな」「そうなんだよ」「結局ね」「今地固まってんのも雨が降ったからなんだよね」「わかる」こんな会話を素面で聞いていられるものか。
ふと我に返ると自分は一体何がしたいんだろうと考え込んでしまう。このまま十年一日のごとくこんなことを続けていくことに何か意義があるのかと考えてしまう時間が日に日に増えているような気もする。年に数回、短期的に居心地の良い環境に身を置いて何かに取り組むことができる機会があるので、日常が尚惨めに感じられてしまうというところもきっとあるだろう。結局、自分で「出会い」にまで昇華できていないだけの話だろという指摘もあるだろうが、今は捨て置くとする。
小さい頃、ケガをしたりして痛がっていると、祖母が「生きてる証拠」と気休めの言葉をかけてくれた。居心地が良くない環境は基本的に摩擦係数が大きく、不和やもどかしさが常にあるから、心に負荷がかかり、ストレスという形で「生きてる証拠」のようなものを与えてくれる。しかし、その気休めの言葉をとっかかりにして事態を受け入れたとしても、さすがに荒涼としすぎているというか、サバイバルが過ぎるというか、寄る辺なさにもほどがあるのでは、と考えてしまう。そもそもの話、こんなものは無益な我慢でしかなく、消極的に嵐が過ぎ去るのをただひたすらじっとして待っているだけではないのか。
そのような自分を対象化し「タフな状況でも常にファイティングポーズを取り続ける男」といったセルフイメージを抱き、ヒロイズムに酔いしれるという方法もあることにはあるだろうが、そんなものは馬鹿馬鹿しいと感じてしまうので採用は難しい。どう考えたって間抜けだろう。
それでもやはり、似たような格好をして似たような考え方をする者どもが寄り集まり、互いに目配せして「どうよ?」「最高」とやっているところに、また似たような格好をして似たような考え方をする者どもがどこかしらから集まってきて「いいね」などとやっているのを傍から見ていると、消化されつつあるものが胃からこみ上げてきて吐き出しそうになるし、つまり反吐が出るということだが、さらに言えばそんな輩どもには血反吐を浴びせかけて回りたい衝動に駆られるし、賞賛のロンダリングしては恍惚とした表情を浮かべ悦びのあまり涎を垂らしてプルプル震えているような集団の一員になるぐらいなら、決して居心地が良いとは言えない環境でこめかみに青筋を立てて一人でプルプル震えていたほうがまだましではないかと考えてしまう。そんなふうに考えてしまうのは負け犬根性が染み付いてしまっているからだろう。
こっちは6年ぐらい前から「混血」というテーマがオブセッションになっているので、そういう純血野郎共とは相容れるわけがない。しかし、相容れないという理由で排除するのであれば「混血」というテーマから外れてしまうのではという懸念もある。それでもやはり四六時中血反吐を吐いているわけにもいかないので嫌いなものは嫌いと言う他ない。明日には好きかも。
気の置けない仲間たちと内輪でワイワイやることの楽しさはわかっている。一方でウディ・アレンが紹介したことで有名なグルーチョ・マルクスのジョーク、「私を会員にするようなクラブには入りたくない。」みたいこともあるから、何をしていても”100% FUN”というのはなかなかに難しいことと思われる。
「他者と出会う」とはつまり「個人と個人が出会う」ということで、それは決して「個人がある集団に溶け込む」ということではないはずだ。しかし、被害妄想の気があるだけかもしれないが、どこに行ったって少なからず「同化」を求めてくる人というのはいるし、それがあたかも「大人の作法」であるというような聞こえの良いすり替えを行う人もいる。自分が特定の集団を代表しているかのように居丈高に振る舞う、パーソナルな領域とパブリックな領域がグダグダになっているような人だ。自分では自分のことをただぬるいだけの付和雷同タイプの人間だとしか思わないが、こういう人物が目の前に現れると絶対にそちらに合わせてたまるものかよとついつい身構えて対応してしまう。
もう何年も前の話だが、当時付き合っていた彼女と喧嘩をして彼女を泣かせてしまったときのこと。しきりに謝りつつも「でもそんな泣くほどのことだろうか。明日友達に話して意見を聞いてみよう」などとぼんやり考えていたら、落ち着きを取り戻した彼女に「どうせ俺の彼女こんなことで泣くんだよって友達に話すんでしょ」とズバリ指摘されてしまい冷や汗をかくということがあった。取り繕いながらもその鋭さに感心して思わずハイタッチしたくなった。
しかし、よくよく考えてみると、我が身においても彼女のように感じてしまうような状況は今までに何度もあった。人は一対一の関係に社会的な要素を持ち込まれると案外すぐに感づくもので、例えば、自分がちょっと変なことを言ってしまったときなど、相手の目線の外し方と口元の緩みから、「これ後から別のところでなんか言われるな」と何となく察することができる。自分でも身に覚えがあるからこそ痛感するのだが、こういった行いは対人関係におけるマナー違反であると同時に、一対一できちんと相手に向き合えない自分の心の弱さをやり過ごすためのズルでもある。
端から社会ないし特定のコミュニティを背負って接してくる人もいる。先述の「自分が特定の集団を代表しているかのように居丈高に振る舞う、パーソナルな領域とパブリックな領域がグダグダになっているような人」のことだ。鉄砲玉気質というか、実行犯気質というか、十字軍モードになりやすいタイプというか。こういったミッションに駆られがちな性格の人物と無理なく親睦を深めていくにはどうしたら良いのか皆目検討がつかない。
実験的にそのような人物が一人きりで過ごしているところを想像してみることにしよう。真冬に夜の住宅街を歩いている。手が悴むので、彼は自販機で温かい缶コーヒーを買ってホッカイロの代わりにしようと考える。取り出し口の缶コーヒーを掴むと思いの外熱く咄嗟に手を離してしまい、缶を地面に落としてしまう。地面を転がる缶。そんな場面を想像してみるとなんだか物悲しくなってしまい憐れみの心がふっと湧いてくる。
換気が不十分で息苦しい社会と呼ぶべきものに空気の抜け道を作るのは一人きりのすこぶる地味な時間であろう。常に満員電車を担いで生きているような人にも一人きりの地味な時間があると考えればなんとなく取っ掛かりを持てるような気もする。しかし「おれは一人の時間なんていらない!」と強く宣言した人も身近にいる。彼の場合はやや反動的なきらいもなかったとは言い切れないが、別に一人きりの地味な時間なんて人生に必要なしという人も案外いることだろう。
「同調圧力」なんていうどうでも良い感じのネットスラングがあるけれど、そのような圧がかかっていることに安らぎを覚えるという人たちもいるだろうし、反対に、同調圧力をてこにして自分を成り立たせている人たちもいるだろうから、「同調圧力」が悪であると一方的に断罪するのは何だか違うような気もする。
それでもやはり悪でしかないと思う。しかし、それを頑なに拒むことは、「アンチ巨人」「アンチApple」みたいなもので、考え方の根本的な部分としてはほとんど同化することと変わりはなく、そういったものを他山の石としてもっと柔軟かつ虚心坦懐に考えてみても良いとは思うが、最終的には、嫌いなものは嫌いという結論に落ち着く。明日には好きかも。
「どや、わてらの飲み会おもろいやろ?」というような飲み会に来てしまったとき、「わちゃあ」と心の中で嘆かずにはいられない。
「どや」と関西弁で言ってしまうと誤解を生みかねないので言い方を変えたほうが良いかもしれない。文化の東西問わず、出身地がどこであれ、「どや」感覚一般が大嫌いという人もいるだろう。そういう自分も「どや」感覚一般が苦手だ。
「どうよ、俺らの飲み会最高っしょ!」というような飲み会に来てしまったとき、「わちゃあ」と心の中で嘆かずにはいられない。そのような飲み会とは言わば「サービス精神」の皮を被った「アテンション集めたがり精神」と「和を以って貴しと成す」もとい「赤信号皆で渡れば…」精神の地獄のハイブリッドだ。スポーティーな内輪ノリの馬鹿騒ぎには見られない独特の後ろ暗さが通奏低音として聴こえてくるようなところがある。パフォーマンスっぽいというか、誰かに見られていないと達することができない感じというか。「ヘイ・ユー、今からオージー・パーティーをやるんだけど、その様子を見ててくれるかい?見られてると思うとたまらなく興奮するんだ!」みたいな感じか。満員電車で彼女のことを守ろうとする男のスタンドプレーに巻き込まれてイライラする感覚に近いかもしれない。
「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損」なんて標語があるが、どうも”OBEY”だとか”CONFORM”と言っているように聞こえてしまう。こんなのは個人の受け取り方でしかないのだが、それでもやはり「どうよ・どや飲み会」は各人のユーモアのあり方を矯正する非常にポリティカルなイベントだとしか思えない。もっと言えばユーモアのネットワークビジネスないしマルチ商法だ。既得権益を守ろうとすることは別に当たり前の話ではあるが、自ら進んでその枠組に組み込まれる必要もなかろう。少しはおこぼれにあずかれるかもしれないが。
自惚れや自画自賛自体は別に悪いものじゃないし、時と場合によってむしろ良いものとさえ思う。しかし、「どうよ・どや」から滲み出るあの嫌らしさは一体何なのか。「どうよ・どや」よりもむしろ「俺ら最高だよな」という目配せに反吐が出るのだろうか。「どうよ?」「最高!」というやりとりに予定調和を感じてうんざりしまうのか。「最高っしょ!」と聞かれたら「別に…」だとか「特に無いです」と返すのが人情というものではないのか。それとも「俺ら」という人称のパブリックとパーソナルの領域がグダグダなところに気持ち悪さを感じるのか。やはり満員電車で彼女のことを守ろうとする男のパフォーマンスに対する苛立ちに一番近いか。中学生の頃、放課後に昇降口を出たところで野郎どもとたむろして、女子が通る度に「おい、おまえマジふざけんなよ!」などと仲間同士でふざけてるふりをしたり、後ろ向きに自転車に乗って注目を引こうとしていた日々を思い出して恥ずかしくなってしまうからだろうか。年齢が30前後だとまだ中学高校といった空間を再現したがる人は多いが自分には無理だ。枕の臭いを嗅ぐ度に我に返らざるを得ない。
ベッキーは5人以上の食事会には参加しないそうだ。たしかに5人以上の飲み会などは参加しても、弾丸状の大声が何発も頭蓋骨を貫通していき最終的に頭が穴だらけになるだけというパターンが多い。頭部がKornの”Freak On a Leash”のPVみたいな状態になってしまう。頭の中にKornのメンバーがいたりしたら少しは心強いのだが。
5という数字はたしかに分水嶺といえよう。20歳以上の人間が5人以上集まって街中でウロウロしているのを見ると、申し訳ない話だが、反射的に「あ、田舎者だ」と思ってしまう。これは別に出身地や住んでる場所のことを言っているわけではない、念のため。松屋の4人がけのテーブル席に大学1年と思しき女子6人組が無理矢理座って話し込んでいるのを見たときは思わず「わちゃあ」と嘆かずにはいられなかった。それと、これは偏見でしかないのだが、そういう5人以上の女子の集団には必ず小ぶりの麦わら帽みたいなのを被っている人がいて、その人はその集団のイニシアティブを取りがちだという気がする。あとデニムのジャケット。
「淀みに嵌って魂が腐るから居心地の良い所に長居していてはダメだ」といった考え方があるとは既に書いた。居心地という場所ないし環境について我ながらこれは酷いと思いつつも他罰的かつ独善的な物言いでネチネチネチネチずっと書いてきたが、どちらかというと場所や環境よりも時間という要因が重要なのではないかということに今更ながら感づいてしまった。魂を淀ませたり腐らせたりするのは環境もあるだろうがむしろ時間の経過であろう。
居酒屋で管を巻いて愚痴をこぼしながらも、結局問題を棚上げにして、日々の繰り返しの作業に戻っていくというようなことはよく見られる光景だ。住めば都ではないが、ゴチャゴチャ文句を言いながらも惰性で物事を続けてしまいがちなのも、やはりそこに慣れというある種の居心地の良さがあるからだろう。いくら淀みが凄まじい腐臭を放っていようと一度その臭いに馴れてしまえば、むしろ心を落ち着かせてくれる馴染みのある臭いとなる可能性すらある。
だから、居心地が良かろうと悪かろうと時間の過ごし方次第では淀みに嵌るように罠が設置されているということだ。
もし脱出への一縷の望みがあったとしても、その望みが打ち砕かれたときのことを考えると、足が竦んでしまう。ゾンビ映画でよく観られる、やっとの思いでたどり着いた島に上陸してみると、木の茂みからゾンビの一群が飛び出してくる、といったエンディングのような絶望が待っているのだとしたら、可能性を可能性のままにして取っておきたいという気持ちもどこかで芽生える。「やらない後悔よりやって後悔」という考え方が共感を呼ぶことがあるが、個人的には、可能性を純粋培養して妄想逞しく無時間的に暮らしていたほうが心の平静を保っていられるような気がする。「もしかしてあの子、俺に気があるのでは?」という予感と高揚を真空状態で保存しておきたいというようなものだ。何か積極的な行動を起こすと決まって裏目に出るというほぼ思い込みでしかない経験則も影響していることだろう。同時にここで思い出してしまうのは「卒業」のラストシーンでダスティン・ホフマンが見せるあの厳しい眼差し。彼が見てしまったものを想像すると気が遠くなる。
他人事であれば、淀みを抜け出して新しいことを始めようとする人を見ると素直に応援したくなるし、羨ましさすら感じる。それが誰からも「もったいないね」だとか「身の程知らずだね」だなんて言われてしまうような状況であろうと。しかしそれが自分のこととなれば、その判断はなかなかに難しいことである。
淀みから抜け出そうとしたときに、いきなり「ニューヨークに渡ってビッグになるんだ」みたいな解決策を想像しがちであるが、そんな突飛な取り組み方をしたってどうしようもない。今の自分の心象風景が「真冬のプール」なのでプールに喩えてみるが、淀みから抜け出すためには、プール開きの前に行われるプール掃除のように、枯れ葉を掬って、雑草を毟って、溜まった雨水を抜いて、デッキブラシで苔を落として、といった具合に、プール全体を自分の手に負えるサイズに分節して、それをひとつひとつ地道に綺麗していくほかない。たとえそこに少しの希望すら見い出せなかったとしても。

 

ノトリイアス・ビー・エル・ジー『不明なアーティスト』を振り返る

先日、高円寺の円盤で行われた新間さんプレゼンツ「不明なアーティスト」がとても楽しかった。
初のソロでのライブだったわけだが、内容についてはあの場所にいた人だけが知っていれば良し!
今回ご一緒させていただいた池田若菜さんのライブはもちろん素敵でしたよ。内藤彩さんがサポートで参加。心の襞をそっと撫でるような木管楽器の響き、ずっと聴いていたいものですね。あの内容の音源を絶対作ってほしい。家でも聴きたい!
その後のトークも在りし日の部室を思い出すものでとても楽しかった。新間さんと、聞き手の柴崎さんは学生時代のサークルの先輩なのです。本当にあっという間に終わってしまったので、もっとやっていたかった。トータルで8時間ぐらいやりたかった。でもそんなことをしてしまったらお客さんとしてはたまったものではないだろう。
トーク中に若菜さんがレコメン系をレコメンドしたことから、「レコメン女子」というワードが生まれ、さらに「レコメン女子はモテない」という切ない結論に至って笑ってしまった。でも、レコメン周辺の、スラップ・ハッピーとかZNRとかアクサク・マブールとかけっこう乙女っぽいとこがあると思う。PCOと一緒に聴けるというか。まぁモテるかモテないかは置いておいて。「スラップ・ハッピーより断然アート・ベアーズのほうが好き!」って人がいたらそれはそれでかっこいい。
レコメンといえば、先日Crammed Discsのツイートで存在を知ったAquasergeというバンドがとても良かった。フランスのバンドで、読み方に自信がないが、カタカナ表記だと「アクワァセウジュ」といったところでしょうか。フランス語の発音について何も知らないのでそれっぽく読んでみただけです。もっと素直に「アクアセルジュ」のほうがきっとベター。
それで、彼らのアルバムがBandcampで配信されていたので早速購入してみた。A l’amitiéというアルバムと、Tout arriveという3曲入りのミニ・アルバム。Bandcampで初めて買い物したのだけど、さすがに「これこそがインターネットだ!」という頭の悪い感想を抱きましたね。だって「腹減った。飯でも食うかな」みたいな情報が跋扈しているのを目の当たりにすると「何じゃあ?」って思うじゃない。
それはさておき、彼らの音楽は、レコメン系というかチェンバー・ロック的な要素が強く、イタリアのピッキオ・ダル・ポッツォやアメリカのマフィンズの系譜に位置づけすることもできよう。思わずトン・ゼーを連想せずにはいられない、良い塩梅に褪色した極彩色の、粒子の粗い映像のようなムードもあったり、ミニ・アルバムに収録された曲ではトロ・イ・モアっぽいことやっていたりと、まさに文句のつけようがないタイプど真ん中の女性と出会ってしまいむしろ困惑してまうといった状態です。
ちなみに、中心メンバーの3人はそれぞれ、ステレオ・ラブ、テーム・インパラ、メロディーズ・エコー・チャンバーのサポートをしていたりするとのこと。後者二つの、ピッチフォークなどのメディアから評価されてそうなものについては、疎いのでどういうものなのかよくわかっていない。
他にもエイプリル・マーチとコラボしたアルバムもあるそうだ。後でダウンロードする予定。エイプリル・マーチといえば、タランティーノの「デス・プルーフ」のエンディング・テーマとしてもお馴染み、ゲンズブールのペンによるフランス・ギャルの「娘たちにかまわないで」のカバー。この曲はハネムーン・キラーズもカバーしている。これぞまさにフレンチ・コネクション。
Aquasergeは今年9月にCrammed DiscsからEPをリリースするそうだ。つい先日新曲のMVがアップされていたが、これがまた良くて良くて。チェンバー・ロック的な一面を保ちつつも、マルク・オランデルにリスペクトを捧げるトランスワールド感覚を携えたアヴァン・ポップっていうのですか。そう言ってしまうと途端に陳腐になってしまうけど。歌に切なさもあってとても良いですよ。EPではシャソールのカバーも収録されるとのことで、楽しみ。

ここで話を「不明なアーティスト」に戻したいと思います。
その日、トークの流れでこのブログについても言及していただいた。ブログのタイトルについて細かすぎて伝わりにくいところがあるようなので改めて説明したいと思う。
まずこのブログのタイトルは”Notoriious B.l.G.”です。”Notorious B.I.G.”ではないです。本物の”Notorious B.I.G.”とどこが違うのかというと、”Notorious”に”i”が足されているところと、大文字の”I”が小文字の”l”になっているところだ。”i”が一つ多いのは私が”torii”だから。”I”が”l”になっているのは”Blog”を略して”B.l.G.”としているから。読み方としては、「ノトリイアス・ビー・エル・ジー」が正解。わかりにくいダジャレでスミマセン…
ダジャレといえば、見りゃわかるんだけど、アイコンやこのブログのヘッダー画像もAutobahnのジャケと「鳥居と真っすぐな道」をかけたもので、「上手いね、こりゃどうも」と言わずにはいられないダジャレとなっております。もじりばかりやってますが、ええ。
再び「不明」の話に戻ります。
トーク中にかけた曲ですが、個人的に既出のものが多いので詳細は割愛します。キーワードとしては、「リズムボックス」「ブラコン」「パラダイス・ガラージ」「コンパス・ポイント・スタジオ」「アフロ・ファンク」ってとこでしょうか。改めて思ったのは「アップ・トゥ・デート」という尺度で自分の趣味をマッピングしても別におかしなところにはいないというか、むしろ真っ当も真っ当だということ。それにしては、何というか、こう、現実に対する手応えみたいなものが一切感じられず、なんだかなぁという想いをさらに強くした次第であります。でもそういうものに色気を出してうまくいったことなど今まで一度もなかったので、爽やかにネグレクトしていこうと思う。これでお互いさま。もはや両思いと言っても良いのではなかろうか。やるじゃん!ヒューヒュー!