愛知県です

私は愛知県出身です。名古屋ではありません。名古屋から南南東へ下ったところにあります碧南市というところの生まれでございます。よくある地方のまちです。

出身地を尋ねられると、「愛知県です」といつも答えているのですが、そうすると「あ、名古屋ですか?」と返される事が多いです。名古屋ではないので最初から愛知県と答えるようにしているのですが、そう返されては二度手間になってしまいます。かといって、いきなり碧南と答えたところで相手からしたら、どこだよ、という話で、これがなかなかに面倒なのです。

さらに面倒なのは名古屋に関する知識が少ないので、美味しい食べ物屋さんなどを聞かれても答えられず、相手を興ざめさせてしまうことです。味噌カツやひつまぶしも日頃よりそうそう口にするものではありません。

母親の職場が名古屋にあったので、幼い頃から訪れる機会には恵まれていました。また、高校生になると友人と連れ立って買い物に行くようにもなりました。しかし行く場所は大体決まっていたので点と点を結ぶ数本の線でしか把握しておらず、地理的にも全く詳しくありません。

方言に関しても面倒が多いです。碧南というところは三河というエリアに属しており、我々が普段使用している方言は三河弁と呼ばれています。光浦靖子さんの訛りは三河弁です。厳密にいうと東三河弁です。碧南の人は西三河弁で会話をします。語尾に「じゃん」「だら」「りん」がつくというものです。三河の人間は、海老フライのことをエビフリャーといったり、ハイライトをヒャーリャートといったりはしません。さすがに名古屋の人も言わないと思いますが。

コミュニケーションの一貫として、相手の出身地をわざと小馬鹿にしてからかってみせることは普段よりよく行われていますが、名古屋弁を馬鹿にされても今一ピンと来ないので、リアクションに毎回困っています。「エビフリャーエビフリャー!」「だみゃあだみゃあ!」などという意味のわからないことを一方的に捲し立てられるのはあまり心地よいものではありません。音声的にもかなり不快です。これは出身地の問題ではありません。試しに松濤在住の幼稚園児に同じことをしても必ず泣くと思います。

かように名古屋に対する心情はかなり微妙なものです。その文化に精通しているわけでもないし、その一方で、人から馬鹿にされれば自分のこととして受け止めざるを得ないのです。名古屋のこととなるとどうも卑屈になってしまいます。

名古屋が小馬鹿にされるようになったのはタモリのせいだと母から聞きました。福岡出身の人に聞くところによると、九州には名古屋を馬鹿にする流れがあるそうです。関ヶ原以来の因縁でしょうか。

ここにきてこういうことを言うのも何ですが、はっきり言って名古屋がどうとか愛知がどうとか人からすればどうでも良い類の話題です。細けぇな、黙って馬鹿にされてりゃいいんだよ、というのが正直な感想だと思います。

アメリカ人に「ヘーイ、ブルース・リー!」と言われれば、「ホアチャー!」と怪鳥音をあげて、カンフーを真似てみせる、そういうのがマナーだと思います。そういったマナーをドメスティックな視点まで拡大する必要があります。ステレオタイプとセルフパロディのキャッチボールこそがコミュニケーションの基本なのではないかと思う今日このごろであります。

 

ぐるぐるとHのカバー

4月6日

さいたまスーパーアリーナに隣接したTOIROというスペースで行われた「ぐるぐるTOIRO」にてライブ。埼玉へ行くのはいつぶりだろうか。

いつかの卒業コンパで、朝まで飲んで、さあ帰ろうという段になって、遊び足りないと言い出す者がおり、皆で付き合うことになった。ひとまず新宿でラーメンを食べて、それからなぜか鉄道博物館へ行くことになり大宮へ移動。開場時間までマックで時間を潰していたのだが、コーヒーを飲んだところ吐き気を催し、トイレに向かうも既に使用中で、やむを得ず洗面台に。それを見た後輩に「ゲロといえば鳥居さん」と長いことからかわれた。

埼玉へ行くのはそれ以来である。小腹が空いていたので、赤羽で電車を待っている間にホームの立ち食い蕎麦屋で食事。一口食べて失敗だと思った。これがきっかけとなり、美味しい蕎麦を探求しようという気持ちが生まれた。今後この気持ちがすくすくと育ってくれることを願っている。

ライブのMCでパスカルズの方も言っていたけど、さいたまスーパーアリーナでやるということで、どれだけ広いところでやるんだろうと疑問に思っていた。当日まで楽しみは取っておこうと思って誰にも聞かなかったし自分でも調べないようにした。室内だと知って腑に落ちた。

ヒカシューを観ているときのこと。ライブ中に、古の民族衣装のようなものを身にまとった女の子がゲストで呼び込まれた。一人はアコーディオンを抱えている。寡聞にして存じあげていなかったが、チャラン・ポ・ランタンという二人組とのことだった。二人を交えて「モスラの歌」と「ハヴァ・ナギラ」が演奏された。これがとても良くて、その後も自分たちのステージがあるというので観たいと思った。

それでチャラン・ポ・ランタンのライブを観たのが、圧倒されてしまった。歌も演奏も上手だし、MCも愉快で笑った。そしてなぜかへこんだ。

先日の「みんなの戦艦」もそうであったけれど、ライブを観て色んな人たちに刺激を受けることが多く、近頃は気が急いている。

4月9日

H MountainsのKJと我らが吉田の生年月日が全く同じということにかこつけてH Moutainsとトリプルファイヤーでライブを行った。誰が言い出したのかわからないが、お互いの曲をカバーしあうということになっていた。Hは「スキルアップ」を、我々は「江ノ島」をカバーした。

Hはしっかり作りこんできていて、その出来は素晴らしいものだった。他のライブでもやるというようなことを言っていたと思うので、気になる人はライブに行って確かめたら良いと思います。

人にカバーされるのは初体験で、企画ものとはいえこれがなかなかに嬉しかった。ライブを観ていて常々感じるのだが、他人の曲を演奏をする人は少ないような気がする。カバー好きとしては皆もっとやったら良いのにと思う。

一方、我々の「江ノ島」は。スタジオにおいて、雑にやってヘラヘラするのだけは避けたいと宣言したものの、最終的にヘラヘラする結果となってしまった。正直悔いが残る。いつかリベンジしたい。

 

陰翳礼讃

10年程愛用しているコンポがCDを読み込まくなった。レンズクリーナーを買ってきて試してみたものの認識すらしない。グーグルで機種名に故障という単語を加えて検索すると、修理の方法について書かれた記事が数件ヒットした。その記事を参考にしながら分解し、中身を掃除して再び組み立てると今度はレンズクリーナーをきちんと認識し音声が流れ始めた。嬉しくなって近くにあったCDを挿入してみると「NO DISC」との表示。レンズクリーナーしか再生しないコンポの存在意義とは。

先日、久々に中野ブロードウェイに行った際にFUJIYA AVICを覗いてみると中古のCDレシーバーが手頃な値段で売られていた。1日悩んで購入を決意。家に帰って早速設置し、ひとまずベタにスティーリー・ダンの「エイジャ」を再生してみる。気合が入った音でなかなかによろしい、と思ったがボリュームが大きめに設定されていただけであった。特に文句はないが、ひとつだけ頂けないのはスイッチを入れるとボリュームノブの上部が青白く光るところだ。昨今は電子機器というと何にでも青色LEDがついてきてかなわない。Amazonで買ったUSBケーブルは認識されるとヘッド部分が青白く光るが、これが邪魔くさくてしょうがない。日本にいる限り国道沿いのセンスから逃れることはできないのだろうか。

最近はすっかりと春めいてきてイルミネーションが撤去されて久しいが、ここ数年冬場になると青白いイルミネーションがよく散見された。新宿駅東口の広場などは植えられている木に青と白の寒々しい電飾が括りつけられていたが、あれを見ると気が滅入るのでよしてほしい。思うにあれは人除けではないか。何となく顕微鏡で見たときの病原菌を想像してしまう。

某私鉄の駅には「結婚したくなるイルミ」などという正気の沙汰とは思えないポスターが貼られていた。ああいうのは誰が取り仕切っているのかわからないがよっぽど美意識に欠ける人物が考えてやっているのだろう。一度でいいから谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」を読んでみてほしい。近世以前の日本人は暗がりに美を見出してきた。「陰翳礼讃」にはきっとそういうことが詳しく書いてあるのだろう。きっとそうに違いない。

 

遅刻はサブカル

九州ツアー出発の朝は早かった。7時発の東京駅八重洲口発成田行きのバスに乗らなくてはならず、メンバーの集合時間は余裕をもって6時半に設定された。

当日、5時に設定したアラームで一度起床した後、念のため二度寝をする。15分程して本格的に起床するために気持ちを整える。5時半頃、山本君より起床の確認メールが届く。返信。シャワーを浴び、着替えを済ました後、荷物を持って家を出る。水っぽい雪が降っていたためコンビニでビニール傘と朝食の菓子パンを購入。10分程かかる駅までの道のりを半分ほど進んだところで、足元に異変を感じる。もしやと思って目を向けるとやはり左右異なる靴を履いていた。左足はKedsのChampion OXFORDを履いており、右足はVansのEraを履いていた。どちらも黒だ。傍目にはわかるまいと思い、第三者目線をシミュレートして確認すると、思惑とは裏腹に両者の差異だけがやけに目立って見える。Kedsは革靴のようなシェイプがエレガントでいかにもプレッピーといった風情、方やVansはストリート育ちの無骨な作りが頼もしい。これは旅の恥の範疇に数えてもいいのか。いやそれ以前の問題だと判断し、家に向かって走りだした。

雪で足元がままならぬ中、傘を差しながらギターおよびエフェクター類を担いで走るのは大変骨の折れることであった。家までつくとVansを脱いで、Kedsを履いた。せめて足元だけはエレガントでありたいと思ったからだ。

息を切らし汗だくになりながら走ったら何とかバスには間に合った。もちろん集合時間には遅刻したが。

学生時代、サークルの打ち合わせのため皆で部室に集まるということが何度もあったが、必ず時間通りに来ない者が何人かいた。一度、先に来たものだけで遅刻について話したことがあった。約束に遅れて焦ると股間がキューっとなるから嫌だという人や、太宰治を引き合いに出してまあ実際待たせるほうがつらいってこともあるよななどとを言う人がいた。私は授業などは平気で遅刻するが人との約束はあまり遅刻しないということを言った。少々得意げな所が癪に触ったのか、黙って聞いていた後輩の女子が一言。「謝るのが嫌なだけでしょ。」

小学生のときの夏休み、最初の一週間は地区ごとのラジオ体操に参加しなければならなかった。毎年基本的に皆勤賞で休むことがなかったが、一度だけ寝過ごしてしまい開始時間に間に合わなかったことがある。会場に近づくとラジオ放送がスピーカーから流れているのが聞こえた。皆が放送に合わせて体操する所を見て完全に日和ってしまった。皆の視線を浴びるのかと考えると堪らなくなり、誰にも気づかれないうちに踵を返してメソメソ帰宅した。

遅刻には肝っ玉や器の大きさを測られるようなところがあって、恐ろしい。大物は遅れて登場なんて言葉も洒落で片付けられないような気がする。遅れても何となく許されてしまう人柄や愛嬌、機転が利かせられる頭の良さなんてのも試されているかもしれない。勘弁してほしい。

遅刻とは反対に、大事な用があるときに約束の場所に早く着きすぎてしまった際、人がどうしているのかが気になっている。例えば就職活動なんかで面接会場のビルに早く着いてしまった場合、私はちょうど良い時間が来るまでそのビルの周りをぐるぐる回ってしまう。同じようなことをしている就活生を目撃したことは一度もなかった。皆ちょうど良い時間を狙って移動しているのか。コンビニで立ち読みしたりして時間を潰すのか。不思議だ。

 
 

なぜ動かないのですか?

―ライブ中、なぜ動かないのですか?

動いていますよ。動かずにギターを弾くことは物理的に不可能です。事実、右手と左手は動いています。楽曲の中でギターの音色に変化をつける場合、足元のエフェクターを踏みます。その際に左右どちらかの足を動かしています。

―そんなことはわかっています。そういうことを聞いているんじゃありません。ではこうしましょう。他のギタリストに比べてステージアクションが少ないと思います。何か理由があってアクションを起こさないんですか?

特に理由はありませんが、強いて言えば動くと気が散るからです。

―演奏に集中している?

そうです。あなたは勉強中に動きまわりますか?そういうことです。

―演奏と勉強は違うものだと思いますが。正直、動かないことで逆に注目を浴びようと思っていませんか。

それは一切ありません。私は常々、長いシールドを楽屋までひっぱってそこで演奏したって良いと考えています。ステージにはマネキンでも置いておけば良い。パイナップルか何かにシールドを刺してアンプと繋いで置いておくなんて手もある。しかしそういう突飛なことをするほうがよっぽど目立ってしまうでしょう。

―お客さんへサービスしようという考えはないのですか?

もちろん考えてはいます。しかしサービスということだけを考えるのならギターを選びません。ギターではなくバルーンアートや手品を選びます。あるいはもっと即物的に肩たたきなんてのも良いかもしれない。ただ現状としてバンドにそれらのパートはありません。

―なるほど。しかし退屈そうに演奏していたらお客さんも退屈してしまうのではないでしょうか。

それはあると思います。私も笑顔で楽しそうに演奏している人を見ると嬉しい気持ちになります。そういったライブではステージと客席の間で楽しさを共有できていると言えるでしょう。多くの人が集まるライブだからこそ、そこに集まった人たちの間で何かを共有したいと思う。そう考えると退屈も共有できるのではないでしょうか。

―多くの人がそんなものを共有したいとは考えないでしょう。しかし不思議に思うのですが、自然と体が動いたりしないものなんですか?例えば頭でリズムを取ったりだとか。

あなたはその質問を電車内でイヤホンか何かで音楽を聴いている人に尋ねますか?

―質問に対して質問で返さないでください。もちろん尋ねません。電車内では周囲の目もあって行動にブレーキがかかる。しかしステージはそういうものではありません。通常、動いてしかるべき場所だと考えられています。だからこそ動かないことを疑問に思うのです。

わかります。しかし動いてしかるべき場所で動くことを主体的な行動と呼ぶことが出来ますか。周囲の期待によって動かされているとはいえませんかね?

―自分でも驚いています。そういった話にはまるで興味がない。再び先の質問を繰り返します。自然と体が動いたりしないものですか?

しないものです。

―そうですか。

そもそもステージ上に自然なんてものはありません。ステージ上での行為は全て作為と見なすべきです。感情の昂りからギターを破壊する人います。一方、これは野暮を承知で言いますが、家で一人のときに感極まってギターを破壊する人はいません。ステージの上と下ではきちんと線引きがされている。ただ、そういった作為をいかにも自然に見せるのがやはり名人なのだと思います。それは世阿弥の「風姿花伝」にも書いてありそうなことです。

―なるほど。しかしステージ上の行動が全て作為であるなら動かないのも作為でしょう。わざとやっているということですよね。

そうなります。

―わざとやっているのならやはり積極的な理由があるはずでしょう。

そうですね。あの、ちょっといいですか。

―なんでしょう?

先ほどから聴こえてくるこのグッドミュージック、なんだか踊りたくなってきません?

―はい?

動く動かないなんてそんな話どうでもいいじゃないですか。このグッドミュージックにあなたとぼく。今ここで踊らないという手はありますか?

―ははは、酔狂な人だ。いいですね。踊りましょう。

では、失礼して。

 

蒼井優VS宮崎あおい

蒼井優好きの友人が言うには、蒼井優と宮崎あおいとの間に覇権をかけた戦いがあったらしい。もちろん彼女たちがキャットファイトを交えていたということではない。彼は蒼井優主演のドラマの受け入れられ方をみてその勝敗を判断しようとしていた。結局は彼女の負けだったらしい。それを受けて彼は「つまるところサブカルの弱さだよな」とこぼしていた。
宮崎あおいもどちらかといえば「サブカル」の範疇だろうと言う人もいるかもしれないがそうは思わない。”宮崎あおい=キムタク説”というのがある、自分の中だけで。単に両者の演技が似ているというただそれだけの話である。キムタクの演技に関して巷間で言われるクリシェはさて置くとしても、思わせぶりな仕草こそが演技であると観る者に有無を言わさず認識させてしまうカリスマ性が両者に共通するところであろう。キムタクがサブカルではないように宮崎あおいもまたサブカルではないということを思った次第だ。かと言ってヤンキーと言ってしまうのは憚られるが、この際ヤンキーと言い切ってしまおう。
またこれは別の自説だが、宮崎あおいは「シャマラン以外の映画には出演しないブライス・ダラス・ハワード」のような存在だと思っている。ブライス・ダラス・ハワードは主人公の男を袖にする利己的な人物を演じることが多いが、シャマランの映画に出ているときはイノセントな役割を演じることが多い。宮崎あおいも狡猾なカマトト役などやったら結構ハマると思うからそういう役をいっぱいやったら良いと思う。友人があるミュージシャンを「いじめっ子といじめられっ子を短いスパンで行ったり来たりする顔」と評していて、なるほど、と思ったことがあった。宮崎あおいにもそのような二面性を感じるといえば感じる。
それはさておき、宮崎あおいVS蒼井優という対決があったのだとすれば、それは同時にヤンキーVSサブカルの抗争でもあったと無理矢理見立てたうえで、話を先に進めたいと思う。
ここでいうヤンキーとは特定の生活ないし文化の様式に倣って生きる人たちを云っているのではなく、性格的な傾向を指すもので、それは「マチズモ」などと言い換えることもできるし、信ずるべき価値観に基づいたコンペティティブな場に参加することを自明とする人たちのことであるともいえよう。サブカルというオルタナティブな価値観が現前化してから、その反動として、事後的に自覚が促された層というか、単にアンチとしての保守反動というか、そういうもの一般を指して便宜的にここではヤンキーと呼んでいる。「マイルド・ヤンキー」といったどうでも良い感じの死語とは全く関係がない。
ヤンキーが覇道であるとすれば、サブカルは邪道である。サブカルは現に邪なものとして扱われている。蒼井優が好きと言おうものなら、「『世間の多数派とは異なる評価軸もった俺はかっこいい』という自意識が透けて見える」などといった地獄のようなおなじみの揶揄が飛んでくるだろう。サブカルは邪な魂をもった人間だと考えられている。翻ってヤンキーは純情な人たちとされる。
「テメェどこ中だコラ」というのはヤンキー流のおなじみの挨拶だ。やはり党派性の強い人ほど他人の党派が気なるもので、仲間ではない者は「何とか主義」という仮初の呼称を与えられ、敵対するものとして措かれる。ヤンキーの辞書に相対という文字はない。早い話が「タイマンはれやコラ」である。相対的であろうとすればをイモを引いたということになってしまう。そのあたりがやはり覇道である。いくらヤンキーといえども一人でビーチフラッグをするわけにはいかない。
岸田秀先生よろしくペリー来航のトラウマということで全て片がつく話かもしれない。ヤンキー対サブカルは幕末期における日米の関係の反復にすぎないと考えてみる。サブカルが辺境で細々とそれなりに楽しくやっていたら、ヤンキーが軍艦を従えてやってきたのだ。しかしこの来航には捻りがある。「ペリエとか飲んでんじゃねぇよ。おれといっしょに鎖国しろやコラ。」と言って迫ってきたのだ。ヤンキーという横文字の人たちがハイカラに対するバンカラという立場を取っているのが皮肉だといえよう。
ヤンキーへ意趣返しすれば良いというものではない。心情的に旗色の悪いサブカル寄りになってしまっているが、そもそもパックス・サブカルチャーナの確立を願っているわけではない。そんなものは矛盾である。ともかく優位を説くことは目的としていない。正味ここに落とし穴があってファナティックな態度を退けようと思ってもやり方がヤンキー的であれば元の木阿弥だ。「テメェ、ナンダそのファナティックな態度はヨオ!物事に懐疑的になれやコラ!思考停止してんじゃねぇよ!」そんなこと言われても、放っといて!ってなもんである。また、少しでも気の利いたヤンキーなら似たようなことを言うだろう。それに、ヤンキーはある意味で「居直りの権化」でもあるから、非難すればするほどそれを養分としてぶくぶくと巨大になっていく一方だ。対立項にヤンキーを置くことはヤンキーに加担することに他ならない。
物事を二項対立で捉えて考えることはわかりやすいし面白くもある。縄文VS弥生とか、平家VS源氏、倒幕派VS佐幕派などといった話は楽しい。また、片方がもう片方をやっつけるときの快感というのもあるだろう。踏み絵というものがある。やらされる方は堪ったもんじゃないが、させる方はさぞ気持ちが良いことだろうと思う。脳内でヤバイ物質が分泌されていそうだ。そんなもんは下衆でしかないが。下衆汁という名前をつけておこう。卑近な例で言うと飲み会で人に空気を読ませたときなどに下衆汁は分泌される。言いたくもないことを言わされるこんな世の中というのも一方ではあったりする。
自分や他の人が何かを語っても立場の表明にしかならないのかと思う。どうせサブカルでしょとか、どうせヤンキーでしょと言っておしまいだ。蒼井優が好きと言ったときの条件反射的な「『世間の多数派とは異なる評価軸もった俺はかっこ良い』という自意識が透けて見える」といった言葉するのも憚られるような紋切り型の反応のように、もっぱらそれを好きと言った人と自分との差異を確認することにしかならず、蒼井優という対象それ自体にまで話が及ばない場合が多い。
思春期を過ぎたら自意識がどうのといった話をしなくて済むものだと思っていた。好きなものそれ自体について自由に語ることができると考えていたが甘かった。今にしてみればそんな都合の良い話があるわけないと思う。パーマをあてて登校したら皆が絶賛してくれると思うのと同じ程度に見通しが甘い。似合ってないとか、おばさんみたいとか、急に色気づいてどうしたの?もてたいの?などと言われるのが世の常だ。蒼井優好きの友人が言った「つまるところサブカルの弱さだよな」とはむしろこの認識の甘さのことではないかと思う。
そもそもの話、何かものを選ぶという行為が争いに参入することなのかもしれない。例えばMacを選ぶということはウィンドウズへの宣戦布告と看做されるというように。実際にMacを使用する人がどれくらいの意気込みを持ってそれを使用しているか知るところではないが、見た目がイカすからMac買お、という軽い気持ちであったとしても、血なまぐさい争いに巻き込まれることは必至だ。こういったことが現実としてあることは受け入れておくべきだとは思う。かといって、別にやっつけたくないし、やっつけられたくもない。むしろここで漁夫の利を狙うという手もある。どのような利が得られるのか謎だが。 その利を想像すると全てがアホらしく思えてきて笑えるし泣ける。
文化的な恨みは食べ物の恨みの恐ろしさに勝るとも劣らない。他人の褌で溜飲を下げれば同時に必ず品位も落とすことになる。人を呪わば穴二つ。それでも愛されたいなどというのはあまりにも勝手すぎる。
https://www.youtube.com/watch?v=izqgebEnZzY

 

脳内バンド

友人がやっているバンドのライブを観に行った際、その日の対バンがライブ中に告知をしていた。今後のライブ予定をひと通り述べた後、それぞれのメンバーが別で活動しているバンドの告知も行っていた。キーボードの男性だけ特に他では活動をしていないようで、メンバーが「君は何かあったっけ?」とないことを知ったうえで一応聞いてみると、その人は「僕は脳内バンドの活動が…」と答えた。一緒に観に来ていた友だちが「暗ぇよ」と小声でつっこんでいた。

確かに暗いかもしれないが、誰でも一度は脳内バンドを組んで活動したことがあるはずだ。中にはポール・マッカートニーよろしく俺が4人いたらなあと考えたことがある人もいるかもしれない。

10代の頃は理想のスーパーバンドをよく妄想した。ボンゾ、エディ・ヴァン・ヘイレン、ジャコパス、ジョンレノンみたいな。さすがにこれは芸がなさすぎるが。しかし、年を取るとこういう遊びをしなくなるからいけない。

脳内バンドに比べて実際にバンドを組むということは非常に骨の折れることだ。まずメンバーが見つからない。メンバーを見つけようとした場合、まずネット上のメンボを覗くことが多い。

しかし、メンボを見てもまあ趣味の合いそうな人は皆無に近い。これは、と思うものがあったとしても、連絡するかといえばそうでもない。やはり躊躇してしまう。勇気を出して連絡したところで返事がないこともある。結局は見て終わりということが多い。

ところでメンボには本来の使い方以外にも楽しい活用法があることを知っているだろうか?まずギターを手にしてメンボサイトを閲覧する。これはと思うものがあれば、目指す音楽性の欄などを参考にして、こういう趣味の人たちならこういうギターが合うだろうと勝手にギターを弾いていく。言わば脳内セッションだ。飽きたら次のメンボ、といった具合に進めていく。時間を忘れて楽しめること請け合いだ。引き出しの数が試されるから学ぶことも多い。

話は戻って脳内バンドのこと。現在、”テニサーヒルズ”というバンドを構想中である。とりあえずバンド名だけ思いついた。

最近はバブル前夜あたりのリゾート感覚というか、ラグジュアリーな雰囲気が流行っているようだ。街を行く人の格好を見ていてもそう思う。山口智子を使ったサントリーオールフリーの広告もそういった類のものだ。自分は昭和62年生まれだからまだ生まれる前のことだが、その残り香のようなもの物心のつく前のことではあるにしても記憶にある。

遊び方を心得た大人達のハイカラな趣味の後に来るものはおそらく成金趣味だろうと思った。土着性に後ろ髪引かれつつ富裕層に憧れる中流のための音楽。それがテニサーヒルズの目指すところである。ただ具体的な音楽のイメージは全く湧いてこない。

そういったことを無視すれば、近頃”Gloria”や”You’re Gonna Miss Me”、”All Day And All Of The Night”といった曲をベロンベロンになってラフに演奏したいという意欲があるので、そこにテニサーよろしくコールを加えて演奏すればいいのではないかと考えている。メンバーが全員潰れたところでライブ終了。当方飲みに自信あり。

 

慣性の法則により放置

エアコンが壊れた。

実際の話、昨年の夏より壊れていたといえば壊れていた。冷房をつけると水が漏れるようになったのだ。今夏はティッシュペーパーを3枚程丸めたものをエアコンと壁の隙間に挟み込み、水をティッシュに吸収させた後、重力に従って落ちてくる所を2リットルのペットボトルで受け止めるという対処法を取っていた。26度に設定した場合、2時間程でペットボトルは一杯となる。赤ん坊のオムツを変えてやるつもりでこまめに水を捨てた。

しかし、なぜだかこれがうまくいかないようになり壁伝いに水が垂れて床が水浸しになるという事態が再び発生するようになった。そこで抜本的な問題解決の必要が生まれた。水が漏れるようになった原因は排水ホースに穴が開いているからである。排水ホースは壁に埋め込まれたパイプに接続されており、排水ホースの穴の空いた箇所はパイプの口に触れる部分であったため、ここにビニール傘から焼き海苔大に切り取ったビニール部分をあてがって水がパイプに流れ込むようにした。完全に水漏れがなくなったわけではないが、これでかなり改善されたのであった。しかしそれも束の間のことであった。ピーピーという微かな電子音が聞こえてくるので、耳を澄ますとエアコンがそれを発しているのがわかった。見るとエアコンは動いていなかった。リモコンの電源ボタンを何度押して反応することなく、本体のほうでオン・オフを繰り返してもうんともすんともいわずであった。素人考えを述べれば、おそらくビニールを雑にあてがったため排水が上手く行われずエアコン内に溜まった水が電気系統に触れてしまったためではないかと思っている。

大体こういうのは放っておけば直るものだという楽観性の下、数時間放った後、再び電源を入れようとするがやはりピーピーというだけである。

気休めに”エアコンなし 夏”というワードを検索にかけてみたりもしたが、黙ってエアコンつけろという意見が大多数であった。また、就寝中に起こったエアコンの故障が原因で熱中症になった人の記事などがヒットし、いよいよ暗い気持ちになってきた。 まだ残暑もあるというのに。気が重い。泣きたい。

しかしそのうちに、なきゃないでいいやという気持ちも生まれてきた。私は運命を受け入れる覚悟した。

いや、業者呼べよとか、不動産屋に連絡しろよと言う賢い方もおられることだろう。しかし私はもう覚悟を決めてしまったのだ。一度決めた覚悟を取り下げるというのは誠に面倒なのだ。例えば、何かしらの危機に見舞わされた人類の命運を背負って立ち、自己犠牲も辞さないと覚悟を決めたウィル・スミスあたりに、「あー、やっぱりあの話なしでお願いしますー!もう大丈夫らしいんで^^」と言ったらどうなるか。大変がっかりすると思うよ。

人間も慣性の法則に従って生きているに過ぎないと言った友人がいた。まったくもってその通りだ。何事も最初のひと押しが肝心である。

ちょっと待った。この先には冬が控えているではないか。絶句。

 

夢の話に遠慮は無用

今思い返すとあのときどうにかなっててもおかしくないよな、という話。

学生の頃、サークルの部室に皆で集まっていたときのことだ。誰に言うでもなく「あー、今日の夢やばかったなあ」と呟いた。目の前にいた友人が微塵も興味がなさそうだったものの親切心で「どんな夢だったの?」と尋ねてくれた。私はなぜか急に照れてしまいニヤニヤしながらやや間を置いて「ンフー、秘密!」と返した。友人は黙って私の顔を見つめていた。そのときの彼の眼は非常に恐ろしいものであった。

この世には目を覆ってしまいたくなるような邪悪なものが確かに存在する。そういったものと比べればまだ可愛いほうかもしれないが、それでもそのときの私は巨悪だったと思う。

今こうして思い出話のひとつとしてこれを話題にあげることができているのも、彼の器のでかさ及び忍耐力の強さのおかげだ。本当にありがとう。

夢の話ほど需要と供給が不釣合いなものはないかもしれない。内容がどうこう以前に、もう夢というだけでその話お断りという人もまま見受けられる。夢というのは大抵が荒唐無稽で脈絡がなくオチがないものだしそれを退屈だと感じるのも頷けることではある。しかし巨悪にしてみればそれがどうしたという話でしかない。もしも自分が独裁者だったらきっと新聞に「総統夢日記」というコーナーを作るだろう。想像しただけでゾクゾクする。

しかし、世の中には、どうでも良いことに対して「まじでどうでも良いわ」と宣言したいと思っている人が一定数存在する。確かに物事に対して「どうでも良い」と表明することにはカタルシスがある。私の「ンフー、秘密!」という一言に対して友人が怒りに打ち震えた理由には私が彼のカタルシスを阻害したことがそのひとつとして挙げられるだろう。そういった形で需要が存在するからこそ、どうでも良いことは日夜絶えることなく供給され続けなければいけない。そこら中で量産されている夢の話もそういったものの一つだ。

世界からどうでも良いことが一切なくなってしまったときのことを想像してみよう。全ての事物がどうでも良くないことになってしまうのだ。私が今ここで必死に左肘を舌で舐めようと奮闘していることが誰かにとってどうでも良くないことになってしまったら?私はその人のことが気の毒でしょうがない。誰がそんな世界を望むだろう。

だから人間は毎晩夢を見るのだし、翌朝誰かにそれを話したくなるのだ。そういった営為によって世界の均衡は保たれている。 どうでも良いことはどうでも良いこととして存在しなければいけない。どうでも良いことがどうでも良くなくなってからどうでも良いことのどうでも良さを痛感したとしてもそれでは手遅れなのだ。だから夢の話をすることに遠慮など必要ないのである。というわけで以前twitter上で呟いたオールタイム・ベスト悪夢を結びに代えたいと思う。

悪夢を見た。田中邦衛の性欲処理のために開発された田中邦衛のクローン 人間。それが俺。感覚が同期されているので邦衛がいじると俺もムズムズする。「同じ人間なんだから仲良くしようぜ」と迫ってくる邦衛への恐怖と自分の宿命に対する絶望から川に投身するところで目が覚めた。

 

訪問販売に泣く

ネット契約の訪問販売が来た。ドアを開けるやいなやどこの者かもきちんと名乗らぬ内に回線がどうした値段がどうしたということを一方的にまくし立ててくる。昔学校で教わった自分がされて嫌だと思うことは人にやってはいけませんよという内容の故事成語に倣って、自分が話しているときに遮られたら嫌だし人の話は最後まで聞くということを実践していたら、あれよあれよという間に工事の予約を取り付けようとしてくるのでこれはナンパ物のAVなのかと思う。精神が蹂躙されているような心持ちになり情けなくなってくる。

以前、似たような場面に出くわした際はいっそのこと泣きだして相手を困らせてやろうかとも思った。結局は、うーん、いやあ、そうですねえ、という曖昧な相槌を打って相手が根負けするまで粘り撃退した。卓球でいうところのカットマンスタイルだ。

向こうはこちらの意志など関係なしにどんどん話を進めていく。時折「そちらはご了承いただけたらと思います」というような言葉が挟まれるが全く意味を成していない。そういう一方的な話の進め方をされると、戦略としてではなく実際に涙が出そうになる。

今回も最初は悲しみが勝っていたが、段々と怒りが湧いてきた。ひと通りの話は終わったようなので、そもそも契約する気はないと言うと、こんなにお得なのに何で切り替えないんですか?馬鹿なんですか?という態度を取ってくるし、浮いたお金で遊んだりできますよなどといらぬアドバイスまでよこしてくる。余計なお世話だ。

死角から鞄がちらちら見えていた。話している男の先輩がそこに立って様子を覗っているのだろう。男の話しぶりにはそいつに対するパフォーマンス的なところもあって更に腹が立つ。

何でダメなんですか。納得がいかないのならきちんと説明しますよと言うので、いきなり一方的に話されても困る、と答えた。そのときの私は炭酸飲料の入ったペットボトルで、ひとしきり揺さぶられた後、蓋を少しだけ開けた状態であった。感情が隙間からジュンジュンいいながら漏れてくる。F1の表彰式におけるシャンペンファイト、日本一の球団によるビールかけと比較すれば、微々たる感情の発露だ。しかし完全に開けてしまえば泣いてしまうだろうからこれ以上は開けられない。

そもそも急に来てこちらの時間の都合も聞かずに一方的にまくし立てられても困る。最初にそれを尋ねるのがマナーじゃないのか。そういった旨を顔面をプルプルさせながら伝えると、あー、忙しかった感じですか?今度は低姿勢で来るのでまたお願いします。と言って去っていった。

色々と納得のいかないところはある。こちらの内面のシュワシュワなど相手の知る所ではない。なるほど相手にしてみればこちらは顧客開拓のワンオブゼムに過ぎないかもしれない。それにしたってそんな軽い返しはあるか。だいたい低姿勢って何だ。俺はいわゆるめんどくさい人間なのか。

怒るのが下手だ。たまに怒りを表明するとキレてんの?と言われ洒落になってしまう。なんてださいんだろう。

きっと戦場に出たらマシンガンを見境なく撃ちまくって味方を困らすタイプだ。 一方で世の中には合気道の名人のような美しい怒り方をする人もいるはずだ。そういう人に私はなりたい。しかしそう願えば怒りがパフォーマンスじみてくることだろう。変に意識して照れ笑いしてしまいそうだ。恥じらいを顔に浮かべつつ涙を流し激昂してる奴がいたらそれはそれで怖い。